思考なく見ること



Kは繰り返し人類に対して言っている「思考なくあるがままを見なさい」と

では「思考なく見ている」とき、「思考なく見ているもの」とは何だろう?

その見ているものは「思考なく見ている」のであるから思考ではないことだろう

この見ることが起こったとき、その見ているものとは思考ではないから

即ち、わたしではないのだ!!


それは対象を持っていないものである、分離が思考であるから、

自他に分離していないものである、

この思考なく見ているものとは主体と客体の分離がないのである


けれども「思考なく見よう」としている者とは「思考なく見ているもの」ではない、

それは思考である


思考であるからこそ思考なく見ようとし、思考なく見ようと努力しているわけであり、

「思考なく見よう」とするその者とは・・それは思考であることだろう

従って「思考なく見ている」ものではない思考には、その思考なく見ている状態を

測ることも想像することも出来ない、測ること想像することが思考の特質だからである



またKは同時に「私なく見なさい」「心なく見なさい」と私達に教えられている

では、その「心なく見ている」、「私なく見ている」が起こったとき

その見ているものとは「こころ」でもなく「私」でもないことだろう

未知なる意識であることだろう


ここから導き出せることは

私達人類は全くもって「見ていない」と言うことである

通常見ていると思っているものとは「私」であり、「心」であり、「思考」なので

それは見ていると思って実感しているのであり、

従って私は見ていると思い込んでいるだけなのである

しかしそれは

Kが言う「私なく見なさい」という「私なく見ている」その目ではない


私達は見ていない・・・何故なら「心」「私」「思考」が作動しているからである

「心」「私」「思考」が、発生しそして作動し、働いている限りは

自分は見ていると錯覚してしまうのである

だが、Kはそれをその「見ていると思っている私なく、思考なく、心なく見なさい」

と教えられているわけである


従って、もし「心」であり、「私」である「思考」が起こらず、作動していなければ

そこには見ることが起こる可能性があることだろう、

「闇が晴れたときにそこには最初から在る青空が拡がっていた」


ここで繰り返しになってしまうが

もし、Kの言うように「思考なく見る」即ち「私なく見ている」事が起こっているとき

即ち思考や心や私が停止し沈黙しているとき

そこにはKがいう「私なく見ている」事が起こる可能性が在り


そしてその「私なく見ている」ものとは

私でもなく、心でもなく、思考でもない人類には未知なる意識であり

現象ではなくてより実在に近いものであることだろう