「見ること」と呼吸の関係


真の「見ること」に現在のパーソナリティーが近づいているときには呼吸は静止

していることだろう

呼吸の静止とは思考の停止だからだ

しかし眠ってしまったり、意識がなくなってしまっていてはいけない

あくまで覚醒状態での思考の停止であり呼吸の静止であるからだ


「見ている」事が起こっている状態から、通常の思考の状態に戻ったとき

現在のパーソナリティーの知覚として「自分は呼吸していなかった」

事に気がつくのだろう


思考を観照している事が起こっているとき即ち真正の自己観察があるとき

多分、思考や呼吸には気がつかず、

その観照の状態から

現在のパーソナリティーが自分である思考に戻ったときに

呼吸は静止し、思考も停止していたことにその思考自身が気がつくのだろう

それは、現在のパーソナリティーであるサイコノエティック体は気づきを「空」として

認識するからではないか、しかしその「観照」の影響は現在のパーソナリティーを

根本的に飛躍させてしまうことだろう、現在のパーソナリティーに変革をもたらすことだろう


マインドは呼吸と共に、思考は呼吸によってメンタル体を経由して意識面に

登ってくる、そして統覚機能である個別的霊魂によって認識され

コーザル体に記録される


従って、呼吸を見ることにより

呼吸の質によって、私達がどのような思考状態であるのかを判明する事も可能となる



欲望にとらわれているときの粗い呼吸

より個別的霊魂の意識が表面に現れているときの呼吸の静止状態

恐怖と不安に苛まされている現在のパーソナリティーの途切れがちな呼吸の状態

怒りや暴力と同一化しているときの荒立つ呼吸

恐怖の呼吸があり、嫉妬の呼吸があり、慢心の呼吸があり、優しさの呼吸がある

それらマインド思考とは呼吸に現れている

現在のパーソナリティーの状態とは呼吸の状態とイコールであると言えよう

沈黙と静寂があるとき呼吸は殆ど停止している、そして優しく柔らかである

それらマインドの状態は明確に呼吸の状態に表れているので、私達がどのような思考に

覆われているのかは、その呼吸に拠っても判明できるほどだ


思考が思考を観察している時の、その思考の状態では呼吸は極度に

少なくなり、「観察者は観察されるものである」との直覚があるとき思考は停止し

呼吸も停止していることだろう、呼吸を超えた「見ること」が

現在のパーソナリティーに顕現しているからだ

内奥の「気づき」が現在のパーソナリティーである現在意識と繋がったのであろう


その時多分、個別的霊魂の内奥によって思考者と思考が同時に観照されている

その認識が現在のパーソナリティーの現在意識と繋がったときであろう

「観察者は観察されるものである」との叡智と現在のパーソナリティーが繋がったのである

その時

「気づき」「見ること」は現在のパーソナリティーに顕現しており、

従って現在のパーソナリティーである思考は停止し、当然、呼吸も静止していることだろう

思考を超えた自己観察が顕現しているときには、思考は停止し、従って呼吸も静止していることだろう

現在のパーソナリティーと個別的霊魂の内奥の意識との繋がりが確立されたのだ

と、そのように思われるのである