色即是空
今日は色即是空について思索してみた
”「色は空である」と見ているものは真我である”と聖賢の方は言っている
ラマナ・マハリシは「空を見ているのが真我です」と言っている
Kはこれを「限りなく拡がっている意識」と言っている
真我とは時空を超えた無限に拡がる「空」の意識なのかもしれない
この空を心なく直接、直覚しているのが真我の意識であることだろう
Kはこれを「思考なく見なさい」と私達誰にでも奨めているのは
私達に対して「心ではなく真我でありなさい」と言っているのではないか
この般若心経で色即是空と看破された方の境地にはただただ感嘆するしかない
この空こそが私達の本質であることだろう
何故なら色(心)とは空であると云われるからである
色(心)は空から出現したのである
これを書いている者はこの空を見ているものではなく空ではない「私という観念」であるため
この空を想像することも、類推することも出来ないし、理解することもない
それはこの「書いている私」とは思考であり、心であり、質料であるからだ
では、この思考に出来る唯一のこととは何だろうか
それは、この私(思考)には出来る事は何もないし、何も知ることはないだろうし、
何もしていないことを分かることだろう、起こっている行為と思考から離れることだろう
この結果である私とは、何もしておらず、何処にも行かないからである
唯一結果であるものにとっての正しいこととはこの事実を覚知し
そして「なる」「する」「しる」から離れることだろう
何故ならこの「なる」「する」「しる」は真我からではなく、私という観念から来ていることだからだ
私というこの自身も含めて、この「なる」「する」「しる」は起こっていることであり
主体と対象の分離も起こっており、良いことも良くないことも、失敗も成功も、成長も退歩も
評価判断も、受容も逃避も、生死も、健康と病気も、自己実現も自己崩壊も起こっているからである
しかしこれらの考えも思考のものであり、決して真の私からの認識ではない
何故なら考えること自体が私という観念から起こっており真我である空ではないからだ
真我である空は考えず「見る」「在る」からであり、中心をもたないと
空とは思考や心ではなく、対象でもなく、対象を知覚する主体でもない、主体と対象の分離がないからだ
恐らく「心とは恐怖に他ならない」ことを看破しているのがその空という意識なのかもしれない
しかし般若心経の作者は色即是空と言った後で空即是色と言っている
これは道元が「身心脱落」のさらのさきに「脱落身心」と教えたのと通暁している
これも推測だが完全否定の先に、その完全否定の中に完全肯定が出現するのだろう