脳とは私のものだろうか?



この脳とは私のものなのだろうか

それとも

この素晴らしき脳が知覚や認識を生み出し、「現在の私」を生み出し、そして

「自他の分離を実感する私」というものを誕生させ維持させているのだろうか?



ほんとうに、この私の心とは私ものなのであろうか? 

そもそも私とは私のものなのであろうか?

それとも、心とは神聖なるマーヤのものなのであろうか

心が働いているので、「私」という実感が生みだされているのであろうか?




知覚や認識と同じように、思考とは私が作ったものではない

その正反対に「起こっている思考」こそが私というものの中身なのではないか

思考が作動している限りは、私、思考者は生み出され、この私は継続し

そこには「私が思考している」との実感が生じている

私が思考を認識しているのだと思っているこの「私」とは、思考そのものなのではないか


条件付けられている脳が作動し、思考が発生し、私が発生している

その脳に起こっている思考が即、この私であって「私」が思考しているとは言えない

思考が「思考を観察する観察者」でもあり、私であり、「私」と「思考」の間の分離を生じさせている

(恐怖が恐怖を観察する私を生み出し、「私」と恐怖の間の分離が生じている)

その思考を観察している「観察者という私」こそがその思考自体なのではないのか





「思考」を対象化して、「思考」を観察している私・観察者とはその思考自体であり

脳を通じて思考が発生しているので、「思考している私」も発生しているということである

それは丁度、行為が行為者を生み出し「私が行為している」「あなたが行為している」

との知覚と認識と実感を生じさせているのと似ていると思われる


思考が無いときには「私」「自己」もない、その思考がないときに、思考が無い状態の中に

観照という「思考なく見ている」真実の「目」が顕現している・・と言われている

これはとりもなおさず、脳の条件付けが一部解除されている状態であろう

このとき

熟睡という観察者・行為者が眠っている状態を観照している意識が顕現していると

そして、その顕現している「思考ではない目・意識」は途切れることなく日中も続くという



しかし、脳の条件付けが解かれていない限りは、行為と行為者は分離し

思考と思考者は分離し、思考による対象化(思考者)は続いていく

従って当然のことながら

「私が行為している」「私が思考している」との虚偽の知覚・実感は続いていく

即ちこのまま思考が続く限りは

この思考の持つ対象化、分離がそこにあり、「私が行為している」「私が考えている」との

「私という虚偽」とその実感は続行していくことだろう

けれども

思考が起こっている、行為は起きているとの直覚・覺知があるとき思考なき「目」が顕現しており

その目は周囲に秩序をもたらすことだろうと言われている




行為を対象化して行為を「私が行為している」「あなたが行為している」と実感する行為者

そのように認識する行為者とは

行為によって出現し、続いていくと・・それがこの現在のパーソナリティーのことだ


このように、このマーヤとは外面だけではなくて内面、内なる世界も同じで

内部・内面において思考やその「思考」を観察している私、即ち思考である私

心を凝視している内面の観察者がいる限り、

そこには思考が惹起した対象があり思考が働いている、そこは思考の領域なのであろう


思考者、行為者、知覚者、体験者とは思考が支配する思考の次元なのだ


その思考を対象化して思考を観察しているものとは思考そのものの働きであることだろう

その思考が「私が思考している」という思考者と「対象化されている思考」の

分離を生み出している


内部と外部とを分離し、それを主体として知覚し観察している私とは生じている思考に他ならない

この私・自己とは神聖なるマーヤなのである


おそらく

この思考が停止し働いていないときには、思考が生み出した思考の観察者は生ずることなく

思考とその思考を対象化して観察している私という自己は存在していない事だろう

観照の目には、「自己の観察者」とその「観察の対象である自己」との分離がないからだ

この目とは熟睡を観照している「思考なく見ている目」のことである




現在のパーソナリティーを観察し、非難し、同一化しているのは

思考の記憶である現在のパーソナリティーそれ自身なのだ

そしてラーマクリシュナが言うようにその自我とは神の道具なのであると


私を観察し、非難したり評価したりしているのはその現在のパーソナリティーという思考なのだ


これは行為に関しても当てはまることだろう

「行為している私」という実感がある限り、

その行為している私、すなわち行為者とは行為によって生み出されており

「私が行為している」若しくは「あなたが行為している」との認識・知覚が生じている

その行為している私という実感を生じさせているのは即ち行為であると言われる


この観念という次元界に於いて起こっている行為というものが

行為と行為している私という分離=行為者を生み出している

だから「私は行為していない」と宣言出来うるものとは実在であって現在の私ではない


行為者という実体感覚は行為によって生じていると

思考者という実体感覚は思考によって生じていると

現在のパーソナリティーというサイコノエティック体は行為と思考の記憶なのであろう

そしてこの私・思考者・現在のパーソナリティーとは思考者と思考という分離の結果であり

「私は考えている」、というその私とは思考が生み出した錯覚なのである

その錯覚こそが「考えている私」という「分離している主体実感」、「私という思考者」である

とその様におもえるのだ


そして、それらは脳の条件付けの結果であり

これは神聖なるマーヤであり、リーラなのである


とその様な思考がやってきている