自我・観察者・観照者




今日はこの三つの段階の私について思索してみた


自己・自我、観察者、そして観照者である



自我を観察しているのは自我であり、通常は単に観察者と呼ばれている

ただこの自我は内側を向いており、自分を観察している状態である

そして、その自我を観察している観察者を観照しているのが観照者と言われる



起こっている嫉妬心や高慢や恐怖心や自我を観察し

私は良くならなければならない、と自我を非難し、自己を評価し、恐怖を克服し

愛深くなければならない、と気分を変えたり、瞑想と称して内面を見ているのが

記憶という観察者なのではないか


そして

その観察者のことを言葉を使わず、完全に沈黙して観照しているのが観照者である

私は観照者を知らないが、観照者には自他の分離がないので他者の中に神を見ている


けれども、私達の通常の人生では

起こっている行為や、想いや、思考や、欲望や、自我と一体化し、出来事に一喜一憂し

完全にそれらに巻き込まれてしまって、観察者さえもが未だに確立していない

それが通常の現在のわたしの段階なのだ



自分が行為している、自分が思考している、自分の欲望だ、自分の私だ、と実感し

また、私とは意識している私であり、私は私であり、私は他と異なる存在、私は主体である

・・とそう思っているのが自我であり、それは自我の観察者ではない

現段階の私達地球人類は観察者ですらなく、自己を観察する事すら滅多にない有様である

未だ観察者すら確立されていないのである


私達は、「観察者とは観察されているものだ」と教えられている

この「観察者は観察されるものである」と言っている「目」とは観察者を観照している目であり

それは観照者の目のことであり、この目とは自他の観察者を分離なく観照していると



しかし、けれども

観照者が顕現するためには、まず前提として観察者が確立されていなければならない

観照者が顕現するためには観察者の確立が前提になっているのである

私達の段階ではまず始めに自我を観察する内向きの目を持つ自我が必要なのである

起こっている出来事や起こっている行為や起こっている思考感情に巻き込まれずに

それを観察している観察者がまず始めに、形成されていなければならない

この為には、起こっている行為や思考に巻き込まれずに、観察するワークが必要であり

この自己観察のワークを通じて観照者によって観照されるべき観察者が確立されていく

観照者の出現の前に自我を観察する観察者が必要なのである

どうしても観照の前に自我の成熟が必要なのである


観照者にとっては、行為や思考や自己自我は起こっていることであるけれども

現在の私を含め現人類の段階では行為や思考は自己が為しているという実感をしている段階

であり、各体の脳が条件付けに縛られている以上は八正道が最も有効なのである

正しい思考と、正しい行為を為せとのことである


この自我は、私とは私のものであると思っており、私が主人、と常に自己を意識しており

私は私である、行為と思考は私のもの、私は私のもの、この人生は自分の人生だと実感しているのである

輪廻は起きているのに、自分は輪廻しているとそう思っている・・記憶が継続しているからである

詮ずるに、この自我とは自己を観察している観察者であり、その私とは記憶の反応のことなのではないか

そして、その私・観察者とはマインドであり、マインドそのものに他ならないと思われる


そして

この観察者とは観察されている思考、記憶の反応に他ならないということを

看破し、観照しているのが観照者なのであろうか



が、しかし、しかしである

この現在の私とは、観照者ではなくて観察者であり、記憶の反応であるのだ

記憶が頭脳に起こってくる感情や想念や欲望に反応しているのではないか

自分とはその起こっている行為や思考や欲望の記憶にほかならないのに

記憶はその起こっている行為や思考や欲望に対して非難したり、逃避しようとして

観察されている欲望や恐怖はその恐怖を観察している自分とは異なっている

と、そのように観察者は思っているのではないか


自分は自我の観察者だと思っている、更に思い上がって自分は観照していると思っている

が、しかしそれは間違っている

自己や自我を対象化するのが自我の特徴であり、思考なのだ

思考・自我は生き延びようと自身を客体化し、対象化して観察する

その自己を対象化して見ている事が、観察者であり観照者ではないことを証明している



もし、観照者が自己を見るならば全てに神を見ているのだと思える

観照は自我を対象化せずに見ており、この「見」の中には自我は見られず、

自他の分離もなく、ただただ至高なる真我が全てに顕現していることだろう




自我の観察者とは自我であって観照者ではない、観照者の目には分離がなく、従って

不二一元であることだろう

そこには恐らく思考の停止、静寂があることだろう

観察者を静寂のうちに分離なく観照しているのが観照者であり、

その観照者の目には自我はなく、従って自他の分離は存在していない事だろう

けれども、この観照者が現在意識になっていない限りは

観照者は未だ誕生しておらず、それは現在意識=思考では意識できない

脳細胞の条件付けが解除されていないからであろう

観照者とは思考やマインドではないからである

この状態は人類には未知なのだ


自己、自我、私を観察して

自分は良くなろう、良くしよう、自己実現しよう、悟ろうとして何かを実践しているのは

目的と動機を持つその自我であり、それは自我の観察者という自我に他ならない

そしてこの事を頭で理解しているのもその自我である

自分は観察者ではなく観照者だと自己を意識しているのは観察者であって観照者ではない

観照者には自己がないからである


そして

この事を、理論ではなく、実際の「理解」が起こったとき、そこに観照者が誕生していると言われている

自我の脱皮が起こったのである、条件付けの解除が起こったのであると

思考の静止の中に「見ること」が起こったのである

・・・とそのように教えられている