気づき
昨日、友人から非常に素晴らしい気づきに関してのお話を聞くことが
出来ましたので、是非とも不二一元を研究している皆さんへ紹介してみ
たいと思います
ここで言う気づきとは、記憶の反応や、知覚作用の範疇の意識や、認識
のことではなくて、Kのいう「心なくして見ること」という「見る」=「気づき」
のことであり、言葉の内容が、一般社会常識の気づきとは全く異なるの
でご注意下さい
ここでの友人の「気づき」と言う言葉を「見ること」に置き換えても大
丈夫だと思います、しかしここでの「気づき」とは脳の範疇の事柄ではない
ので、心や脳に属している記憶や知覚や認識等の対象とはならないのでご
注意下さい
以下はその友人の話の要約です
「気づき」の中には「気づき」「見ていること」が在り、心がないのです
その「気づき」を記録したり、記憶したり、知覚したり、認識したり、判断し
たりする私がおらず、「見る者と見られるもの」という分離が全くありません
ただ「気づき」があるだけであり、そこには心はなく、従って私がいないのです
この「気づき」の中には心である知覚や、認識や記憶がなく、主客の分離が
なく、その「気づき」が去った後、そこへ私という主体が戻り、これは「気づき」
だったと、気づきが起こったことを知覚し、認識し、記憶し始めるのです
そしてそれが気づきであったことを心・私・自己意識が復活して知ることとなり
それを記憶することとなりますが、それは決して「気づき」ではなく知識や情報
に過ぎないのです
・・・と
以上です
どうやら賢者の言うように「気づき」の中には「気づき」に気づいている心は
存在しておらず、「気づきは気づきに気づいていない」という事のようです
(この文章では「気づき」とはマインド・心ではない心を超えている意識の事を
指し、もう一つの気づきとは単なる諸体の知覚作用をさしていると思われます)
「気づき」の中には気づきを気づきであると解釈したり、判断したり、対象化
したり、知覚したりする私即ち心がいないので、それを記憶することがないの
であろうと推測できます
これらの事は以下のようにも推測することが出来ると思われます
源泉は
心と脳である、感覚や知覚を用い、認識や記憶を用いて、それらで構成されている私
という個人を使って行為を為され、出来事を起こさしめておられるが
行為を為し、出来事を起こしているものは、知られることはなく全てを知るも
のである・・と
その知るものとは心ではなく、私ではないので、知覚することも、認識するこ
とも、知られることもなく、記憶することもないだろう、何故ならその知るもの
とはまさに
心を用い、脳を用い、感覚や知覚を用い、記憶を用い、私という自己意識を
使い、肉体や諸体を使って行為を為し、出来事を起こしておられるからである
と