私とは?
私とは何か?又は私とは誰か?
この人生で最重要なテーマに思索だけで接近してみた
私とは何か?私は誰かと問うているのは誰か?
私は誰かと問うているのは、その問われている私であり
私なるものとは何なのかを掘り下げてみたい
理論だけだが、まず
この「私は誰かに?」正面から入っていこう
私の論理的結論はこうだ・・・私とは未知なる根源のリーラな
のではないか、
若しくは私とは「私という観念」そのものであり、絶対なる根源
の一部なのであり、私とは神聖なる源泉が使用している道具
であるのではないかということだ
その根源が創造して使っておられる「使用しているもの」・・・
それが私であり、「私」という実感であり、実体であり
それが継続している「私」という神聖なる錯覚ではないか
また、それは「私」というその錯覚の継続している記憶であり
「私」、「私のもの」、とは神聖なるマーヤ、私という観念である
・・・と、おもうのである
では私の構造とは何か?考えてみた・・
私というこの錯覚は行為と思考と記憶によって生じているの
ではないだろうか
根源から起こっているこの行為と思考が私の正体である・・・と
私という実体感覚を思考と行為が生み出しているのである
私が考えているのだろうか、それともその考えが起こっているのだろ
うか?
本当は、私が考えているのではなくて、起こっている考えが「考えて
いる私」を生み出し、、私が行為しているのではなくて、為されている
行為が「行為している私」を生み出していると言われているのである・・
同様に私が記憶しているのではなくて、記憶という物質・質料が持続
しているので「記憶している私」を生み出し、「私という実感」を持続
させ、維持しているのであると
そしてその思考と行為の記憶が現在のパーソナリティーとなっている
ここで一般常識を離れる必要性が生じてきている
通常人類は、私が思っている、私が生きている、私が行為してい
る、私が喜怒哀楽している、私が知覚している、私の人生、私の
自分だと誰もがそう思っていることだろう
しかし実相は全く違っており、全くその逆なのではないだろうか
その思う、行為する、喜怒哀楽、知覚、人生、自分とは根源から生
じているのであって私からではないのではないか
私が思考しているのではなくて、まず始めに思考が起こっていて、
その直後に思考する私が生じているのである、と言われている
私が怒っているのではなくて、まず始めに怒りが起こり、その後に
怒っている私が生じているのである、と言われている
私が行為しているのではなくて、行為の直後に行為する私が生じてい
るのである、と言われている
心が脳によって受けとられ、心が私、という感覚を生じさせているのだ
同様に、この記憶とは、特定の記憶が集合の記憶を構築している
のだが、脳のブロックによってその記憶の集合体にアクセスできな
いのである、人類の脳は条件付けられているからであるらしい
ただしここで重要なことは、脳は私の脳でもなく、心は私の心でも
ないということだ、脳も心も所有物ではない、心も私のものではない
私の記憶なのではない、記憶というシステムが正常に機能している
ので、その特定の記憶が私という錯覚を生じさせているのだ
これは私の推測だが、脳は実際にはすべての人類が繋がって機能
しているのだが、現在の所、脳がブロックされているので、自分は
単体だと思い込んでいるのではないか?
私の人生なのではない、この特定の肉体において、特定の行為と
思考が起こるようにプログラムされており、その結果としてある特
定の行為と思考が生じて「特定の私」という感覚=錯覚を生じさせ
ているのである、私のパーソナリティーとは与えられているのではな
いか?
私が息しているのではない、息をすることが起こっているから「息し
ている私」「私が息している」という私が生じている
この現在のパーソナリティーとは、起こっている行為と思考の記憶
の結果であり、行為と思考そのものが現在のパーソナリティー即ち
私に他ならないのではないか
現在のパーソナリティーが思考し行為しているのではない、私が行
為し思考しているのではない、行為と思考が起きている、この私は
起こっている思考と行為であるのだろう
実相は常識と全く逆であり
現在のパーソナリティーこそが、その起こっている行為と思考によっ
て生じている神聖なる錯覚なのである・・それが私という実体なので
あろうか
私とはその行為と思考であり、生じている「私が思考し」、「私が行
為し」、「私の私だ」と思っている思考と行為によって生じた記憶の反
応が私であり、それは質料であり物質だと言えようか
故に全ての物質は私という実感を持ち、その物質は記憶していると
言うことが推測されよう
で、肝心なことは、その思考と行為とは起こっており、未知なる源泉
から起こっているプログラムされた出来事なのであると言うことでは
ないか
私・現在のパーソナリティーが思考し行為しているのではなくて、根源
から生起している思考と行為が私を生じ、維持させて下さっておられる
私・現在のパーソナリティーとは根源がお使いになっておられる神
聖なるマーヤなのであると私は信じている
それで結論からすると
私とは誰か?私とは何か?との問いに関しての私なりの答えは
私とは起こっている神聖なるマーヤであり、起こっている思考と行為
そのものであり、記憶を持つ質料である・・と言うことなのである
であるので、これらを書いている私も、私が書いているのではなくて
ここに書くことが起こっており・・私が書いているという実体感覚は
「書いている行為」が私という感覚を生じせしめている・・ということな
のであろうか
この思考と行為を起こせるのは源泉であり、結果であり錯覚である記
憶ではない・・この記憶という質料である私にとっては・・それは未知なる
絶対的な行為者、思考者であるだろう
それこそが現象世界を創造され、維持され、消滅させておられる根
源なのであるといえようか
故に
誰でもそうだが、私が生きているのではない、個人が生きているの
ではない
あなたが生きていて、あなたが思考して、あなたが行為して、あな
たが記憶しているのではない、あなたの人生ではない
生き、思考し、行為し、記憶しているのはあなたではなくて、あなた
を使って生きて表現しておられる聖なるマーヤ・源泉なのではないか
私が生き、私が思考し、私が記憶している私の人生、私の輪廻な
のではない
思考が起きており、記憶が作動し、生命が維持され、心臓の鼓動
は起こり、息が続いており
その結果
その思考、その記憶、その生命、その息とその頭脳が、
私の思考、私の記憶、私の頭脳、私の行為、私の自分、私の輪廻
という錯覚を生じさせているのではないか
だから本当は
わたしはいない、あるのは神聖なるマーヤであり、
その神聖なるマーヤとは起こっている行為であり、思考であり
神聖なるマーヤが行為と思考を使って虚偽の私という実体感覚を
維持させてくださり、現象界を演じておられるのではないだろうか
それ故にこの自我である私もあなたも神聖なる神の演技なのでは
ないだろうか