何もしないこと、何にもならないこと
私達は常に何かに成ろうとあがき、そのために何かをしている
しかし、究極的な意味あいで
私達は何もしておらず、何にも成らないと教えられている
では、意図的に私達は「無為」というようなことを実践するこ
とは可能なことなのか?この私達であり「私という観念」であ
る意識にとって行為や思考を超越した無為を実践することは出
来ない・・といえる・・それは起こると言われている
「心の範疇」にある意識にとっては思考のない状態を想像する
ことも類推することも出来ないし、行為を超越した「無為・何
も為さない」ということを実践することは出来ない
「心の領域」には常に思考と行為は起こっており、無為とは
この「心の次元」ではないことであり、行為の次元にはない
何もしないと言うことは私達にとっては論じることが出来ない
ことがらだし、実践することが出来ないことなのではないか
何かをしない、または何かをすると言うことは意志によって
起きているので、意志とは「心の次元」から生じている
私達のレベルでは何もしないことは出来ず、何かをすることだ
けが出来るだけであり、それは自動的に起こっている
で私達のレベルでのその何もしていないと言うことは「起こっ
ている」ことの結果であり、「起きている意志」の結果であり
実際には「何もしていない」のではなくて「何もしていない」
というふりをしているだけだといえるのではないか
だから、私達のレベルで無為を実践した場合、それは無為ではな
く自我的行為であり、その無為とは虚偽であり動機と目的に
よって汚染されてしまっている
それは「思考なく見る事」も同じであるといえる
目的や動機や意図を持ってあるがままを「見よう」とすることは
「あるがままを見る」ことを汚すことである
私達が何もしていない、何にもならないと言うことを実践する
なら、それは何かを得るために行っている行為であり、思考に
過ぎず、思考と同一化している状態なのではないか
それは思考の範疇に有ることだといえる
通常、私達は思考に巻き込まれ同一化しているので、思考な
く思考を見ようとすること・・即ち「自己観察」はしていない
従って、思考の命ずるままに、思考と同一化して「何かをし
よう」「何かになろう」「何かを得よう」と目的を持って動
き回っているだけなのである
従って私達の何もしていない、何にもならない、無為、無欲
自己観察とは、それは思考を超えている振りをして、自分は
「観照」しているし何もしていないなどと思ったりしているだ
けなのではないか・・それは決して思考を観察しているのでは
なくて、思考に巻き込まれているだけである
この思考とは自己意識でもあるので、私達は自己に巻き込まれ
ており、自己に憑依されていることに気がつくことがないの
で「見ること」「何もしないこと」「何かになろうとしない
こと」が行為の範疇に有ると錯覚している
思考・自己は常に何かになろうとし、何かを獲得し、何かに至
ろうとし動き回っている、そしてその延長上に何もしないこと
何にもならないこと、などの実践があり・・それらは実は何か
に成ろうとしていること何かをしていることであり、それは自
己欺瞞であり、嘘なのだ
私達の日常生活とは、ほぼ100%思考や自我に占有されてお
り、思考と同一化し、思考の働きに気がつかないし異議を唱え
ることもない、常に自他を非難し、判断し、願ったり、欲した
り、逃避したり、同一化したりして、行為に巻き込まれ、出来
事に巻き込まれ、記憶に巻き込まれ、条件付けと一体化して、
自分を行為者だと信じ込んでいる、従って起こっている出来事
や、起こっている行為や、起こっている思考に対しては記憶か
ら、その条件付けから反応しているので、決してその行為や出
来事をあるがままに見ることをしていないし、見ることも出来
ない
ではその「見ていると思っている」主体である思考即ち自我と
は何か?
その憑依している実体である思考とは?思考の正体とは何か?
思考とは自己意識であり私であるが、その思考は私が創ったの
であろうか?この私とは私が創ったのであろうか?
自分は自分の所有物なのか?私とは私のものなのか?
その私を自分の所有だ、思考は自分の思考だとの錯覚を引き起
こさせているのは思考自体であり、それこそ思考のからくりで
あるといえようか
神しかいないのに、神以外の主体があるかのように思わせてい
るのは思考なのではないか
私、それはこの個人の私の中に幾万、幾百万といる過去世の自
我、私として一生懸命に人生を生き、苦しみ、つかの間の幸せ
はあったにせよ、艱難辛苦をなめ尽くし、最後は苦しみの中に
のたうち回り息を引き取った私がそれぞれの肉体に取り憑いて
いる、
幾十万の数珠の様に・・・・
それらの私とは、勿論私であり私達でありあなたたちである・・
では更に進めてみよう、即ち自我とは何か?思考とは何か?
この個性溢れる私とは私の創造なのであろうか?
それとも神の演技なのか?
人を殺め、欺し、己の欲望を満たすために人生を駆け抜けたそ
の私・自我とは神なのではないか?
自我とは神の演技なのである
私には私は創れない、あなたにはあなたは創れない
思考の結果には思考自体を生み出せない
自我は自我には創れない、自我には肉体やサイコノエティック体
は創れず、思考も欲望も行為も感覚も感情も知覚も記憶も認識も
意識も無意識も心も創ることは出来ない
この「記憶の反応」である私という自我とは「記憶の反応」には
創れないのだ
従って、当然のことながら自我には自我は創れない、私には私
を創れない・・・私は私のものではない・・・
記憶の反応には、その反応を生み出す記憶装置を作れないのと
同じだ
神が私を創造し、自我を創り、私として生きて苦しみ悩んでお
られるのである
私も、私である自我も、あなたも、そして私の肉体も、あなた
の肉体も幽体も霊体も、高級諸体も神の創造であり
神の演技なのである
私・自我とは神の演技に他ならない