私には私を作り出せない
近頃思うこと、思索していること・・・・
人間には人間を生み出せないし、創造出来ない
私には私自身を生み出せないし、創造出来ない
この私は私のものではないし、私が私を生み出したのではない
人には自分自身を生み出せないし、創造出来ない
これは常識と正反対だが、よく考えてみれば誰にも分かることだ
人には肉体や諸体を生み出せないし、人には個別的霊魂を生み出すことは出来ない、創造も出来ない
確かに、ここには世界でたった一つの個性を持つ、他と比較することの出来ない私がいるけれども、
人には自分という世界でたった一つの個性を生み出すことは出来ないし、創造出来ない
(この世界でたった一つの私とは神の芸術作品なのだ)
人には指一本からだを動かすことは出来ない、従って行為をすることは出来ない
(脳の正常なる働きで行為が出来ているのであり、行為は脳が生み出している)
(脳は私が管理し動かしているのではない)
人には感情や、思考や、知覚や、五感や、記憶を生み出すことは出来ない
(これも正常なる脳の働きの結果であり、脳が生み出していることだ)
人には生まれたり死んだり健康や病気になったりすることは出来ない
人には自分自身を生長させ維持させ、継続することは出来ない
人には自分を創造することは出来ないからである
私達は自由意志とは自分の自由意志だと思っていることだろうが
自分の自由意志ではなくて、自由意志が起こっているのではないだろうか
脳が条件付けられているので、その条件付けに従って意志が起こっているのではないか
人には自由意志を生み出すことは出来ない、それ故に出来事を決定したりすることは出来ない
ラマナ・マハリシの言うように、出来事は既に決定しており、過去が現在として顕現しているのではないだろうか
出来事とは私やあなたに関わらず起こっているのではないだろうか
即ち
私とは出来事と同じく起こっていることの結果であるのだ
私とは条件付けられている脳が生み出した虚像なのである
・・というのも
脳が正常に機能しているので意識が継続し、自分という記憶が持続しているので
あたかも、私という自分が自由意志を持って人生を生きているような自己意識が発生しているのだ
脳が身体を動かすことも、思考や感情や記憶の働きをコントロールすることもしているのだ
より正確に言えば
脳が媒体となって行為しているのであり
人という自分が体を動かすことをしているのではない
思考に関しても同じである
行為と同様に自分の意志で思考しているのではない
まず始めに意識が起こり、そして意志が発生し、その意志が思考を動かし
その思考が実際には誰もいないのに「私の思考だ」という錯覚を生じせしめている
私には心を生み出すことは出来ないのである
私には自由意志を生み出すことは出来ないのである
心とは自分のものではない、脳が自分のものではないように、
心とはあなたの所有でも私の所有でもない
その逆に生じている心が私やあなたという錯覚を生んでいるのである
人には自分自身を生み出すことも、維持することも出来ない
私にはこの自我・自己自分を生み出せないし、創造出来ないし、継続することも出来ない
マーヤとして、創造されているのがこの意識であり、私、自己、自我であるからだ
この個性は個性あるこの私には生み出せない、この個別性は個別性によっては創造されない
創造されているものがこの個性であり、個別性なのだから
私には生まれることも、生きることも、成長することも、病気になることも、死ぬ事もない
それらは起こっていることだからである
私には恐怖することも、希望することも、欲望することも、五感を味わうことも、苦しむことも出来ない
私には怒ることも、欺すことも、殺すことも、反省することも出来ない
私には行為することも、思考することも、記憶することも出来ない
それらは起こっていることだからである
それらの肉体も行為も思考も、感覚も、運命も、知覚も、認識も、心も、記憶も、脳も私のものではない
肉体もエーテル複体も、サイコノエティック体も自我体もコーザル体も輪廻も私のものではない
勿論個別的霊魂も私のものではない、私とはマーヤである
私とは創造された幻影であり、行為が起こっているものであり、思考が起こっているものである
私とは私というマーヤであり、生起している神聖なる幻影であるからだ
なることは起こり、することは起こり、進歩も退歩も起こっている、
私は起きている
自我は起こっている
内部も外部も起こっている
記憶も知覚も認識も起こっている
私とは起こっている事柄であり、私の個性は起こっている事柄であり、私自身も起こっている事柄だ
意識そのものが私のものではなく、起こっている事柄であるだからだ
意識は私のものではない、意識が私という錯覚を持続させているのだ
人生・・それは起こっている
私・・・それは起こっている
目覚めも、夢見も、熟睡も起こっているように、行為も出来事も起こりそして去って行く
何一つ私のものはない、わたしであるものはなにもない、私が私のものではないからだ
私とは聖なるマーヤである
内も外も神聖なる起こっている事柄である
私が生きているのではない、マーヤが行為し思考している
私自身こそが起こっている事柄であり、神聖なるマーヤである・・と
・・・その様にふっと思索し、考えたりしている今日この頃である
★私のこのような考えは人を怠惰で眠らせると言う人がいるが・・決してそうではない
その反対で、このような考えをするには極度に鋭敏で不断で活発な思考が要求されるのである
ここでのこの受容性とは怠惰や眠りではなく、怠惰や眠りさえも見つめようとする情熱であり
その絶えざる情熱が全肯定なのである、全肯定とは観照なのであり、思考を見ることなのだ
その様に怠惰だと言う人は思考と同一化することによって思考から逃避しているのである
クリシュナムルティーの言う思考の隙間の発見とは、思考を対象化している限りはありえない
全肯定とは「御心のなるが如くにならしめ給え」であり、未知なる真我への全託なのである