五つの鞘(コーシャ)
今日は真我を被っているといわれている五つのコーシャ(鞘)について思索してみた
この被われている真我とは現在のパーソナリティーであるこの私には知るよしもないけれども
輪廻している現象三界と輪廻していない実相四界の接点とも云われている個別的霊魂の内奥
又は観照者(永遠のパーソナリティー)の内奥である真我のことであろう
即ち、この観照者又は永遠のパーソナリティー又は個別的霊魂の内奥には真の私が実在していると言う
(記憶の反応であり、思考であり常にお喋りしているこの現在のパーソナリティーが云うのもおこがましいが)
観照者・永遠のパーソナリティー・個別的霊魂とは
神道では一霊四魂と呼ばれているその「一霊」のことであり
現象界との接点であり、「一霊」と繋がっている直霊・個別的霊魂の事であろう
この四魂と言われているのが五つとも、六つとも云われている鞘(コーシャ)の機能のことである
各宗教や地域によって、またその覚者の環境やレベルに従ってその表現は数多くあり、また異なっているように見えていても、
霊的解剖学の立場から考察したときそれは同じ事象を指していることが分かると言えることだろう
それらは究極的には共に根源によって創造されたものであり、根源の演技・縁起、リーラ、マーヤ、芸術作品であるといえる
この思考者、経験者、観察者、主体、私という「対象と分離された実体感覚である」この現在意識の私とは
このマインドという芸術作品そのものであるといえようか、
現在意識は思考であり、私自己であり、この現在のパーソナリティーの意識とは個別的霊魂である静寂の観照意識ではない
それ故に観照者・永遠のパーソナリティーとは創造されたものではない根源・源泉直結の意識であるといえようか
頭脳は私のものではなく、肉体も私のものではないように、マインドも私のマインドではない
諸体も私のものではなく、記憶も自我も私のものではなく、現在意識も自己意識も私のものではない
この私自身も、私自己という実感も私のものではない、それは、マインドのものだ、心・マインドとは個人のものではないからだ
私だと言っている諸体及び私独自の心とは、全ての人が持っている共通の自己感覚それはマインド
それは私という観念であり、私という観念という根本無明マーヤは究極の源泉から生じていると
私という観念とはマインドであり心であるから、常に私、私と自己を意識している
この私、幾多の無数の私、私達とはそれはマインドであり神聖なるマーヤに他ならないと推測することが出来る
私の意識とはマインド(心)そのものであると言える、
そのマインドの特徴とはラマナ・マハリシなどアドヴァイタの方々に拠れば
私という観念であり、根本無明といえる
マーヤそれは「私」「他人」、「主体」「客体」という分離であり、それは神聖なるリーラであると
マインドである知覚と認識とは常に主体と客体の分離の中にあり、
従って知覚と認識、経験と体験そして記憶の中身は「私」という私という観念によって色づけされている
このマインドの実体感覚とは私・自己であり恐怖と愛のなさであって、
マインドが生まれ変わり、脱落し、高次のマインドにならなければあるがままを見る事はないと
この私達が知覚し認識している内部世界と外部世界とは
私という観念・マインドが知覚し認識している世界であり、それは沈黙という個別的霊魂が見ているあるがままではないと
この輪廻している現象三界の諸体即ち神道風に言えば四魂が再び再形成して高次の実相四界と同調した結果ハートの結束が解かれ、
内奥のその輝きを現すことが出来るほど透明になった地球人類は一つの人類・高次のマインド体として新たなるステージに立つと言う
ではこの五つのコーシャ(鞘)とは何だろうか
⑤肉体、アンナマヤ・コーシャ(食物鞘)
(この五つのコーシャにはそれぞれの鞘を繋いでいるいくつかのエーテル複体があり機能している、
経絡とかツボとかは この各体を繋ぐエーテル複体(プラーナマヤ・コーシャ)の肉体上の接点である)
④幽体、アストラル体、感情体、未形成のサイキック体、マノーマヤ・コーシャなどなど
(肉体の死後はこの④~①は肉体を離れる)
③霊体・メンタル体・思考体・未形成のノエティック体、マノーマヤ・コーシャなどなど
(未形成の場合サイコノエティック体としてあるが再形成されるとこの身体は高次ノエティック体として生まれ変わり
永遠のパーソナリティーとのブロックが解除され現象界に於ける新たなる役割を行う身体が誕生するという)
③④は再誕時の胎児にそのエッセンスがワサナとして再び引き寄せられるという
②自我体、現在のパーソナリティー、自我の記憶体、ヴィジュニャーナマヤ・コーシャなどなど
(輪廻の再誕時にはこの②のエッセンスは①に収納され個別的霊魂・永遠のパーソナリティーと共に新たなる肉体に宿ると云われている)
①コーザル体、原因体、高次記憶体、至福歓喜体、アーナンダマヤコーシャなどなど
(このコーザル体が個別的霊魂に輪廻を可能にしているともおもえる)
そしてこの奥に私という観察者や思考者や体験者や私という観念を一切含まないマインドを超越している
観照者があるがこの現象界の諸体に被われ、私という観念によって被われている個別的霊魂がある
賢者に拠れば①~⑤までのいずれも真の私のものではなく、真の私ではないのに
真の私である個別的霊魂がこれら私という観念に被われており且つ
現在のパーソナリティーという現在意識が生まれ変わっていないので個別的霊魂と意識が繋がっていないと
この私達である現在のパーソナリティーが脱皮し再生しない限りは個別的霊魂に触れることが出来ない
即ち私達・現在のパーソナリティーというマインドが個別的霊魂と繋がるためには
この騒がしい思考の私が沈黙という個別的霊魂と同調する必要が有ると言うことなのではないだろうか
マインドは可変の幅があるのでマインドの段階バイブレーションが変わることは可能なのであると
この常にお喋りしている思考である現在のパーソナリティーが個別的霊魂と同調するには
思考なく静かであること即ち静寂と沈黙が必須であることだろう