思考なく見ることは可能か






私の友人でクリシュナムルティーの「思考なく見る」、それは不可能だと言った人がいたけれども

その彼の言うことに異論を唱えたいので敢えてここに述べさせて戴こうとおもう


クリシュナムルティーは「思考なく見なさい」と私達に教えられているのであって

「思考なく見ることは不可能なのである」と教えられているわけではない


このことをまずハッキリとさせねばならない


確かに「思考なく見ること」は最高度の至難の業ではあるだろうが私達にとって不可能なことではないのだ


では思考なく・観察者なく見るとはどういうことであるのか?

この「見ること」とは勿論段階があり、レベルがあり、次元の違いもあることだろうが私なりに推論してみた


観察者なし(私なし)に見なさいと云われているその観察者(私)なしにみるとはどういうことを指しているのだろうか?

観察者とは思考のことであり、その思考の働きに巻き込まれていることを見なさいということではないだろうか?

(脳に結合しているので脳の働きを自己の働きと誤認し、脳の作用を自己の作用だと誤解しているのだ)


では具体的には思考である観察者に巻き込まれて見ているとはどのような見方のことを指しているのか?

また心なしに見なさいと言われるその心なし見る見方とはどういう見方のことであるのか?

まずそのことを知らねばならないと思う、私なりに思索したことを列挙したい


心なしに、観察者なしに、思考なしに、私なしに見るとは具体的には、記憶の反応なしで見ると言う意味ではないだろうか

異なった言い方をすれば頭の思考と同一化せずハートで見なさいという表現になるのかもしれない

これは見ることのアートなのかもしれない


①内部と外部を、あるがままに全てを受容すること、起こるだろうこと、起こっていることのすべてを受容すること

 (変えよう、~しよう又はしないようにとすること、あるがままを変えようすることは見ることを阻害する

混乱しているなら、混乱したままでいなさい、悲しいなら悲しみなさい・・ということ)

 (恐怖を受容している私と受容されている恐怖という区別・分離が錯覚だと云われている)


②目的と動機を持たないこと、何も願わないこと、何も望まないこと、理想・理念を持たないこと

(これは全託を意味しており、「御心の成るが如くにならしめ給え」であり、現象界の推移を起こしている御心に全託すること)


③どこにも行かないこと、どこにも到達しないこと、何もしないこと、内部も外部も行為しないこと、ここに止まること
         
(進まないこと、退かないこと、避けたり、受け入れたり、登ったり、降りたりしないこと、動かないこと、全託し受容すること)

(行為と起こるすべての出来事は自動的に起こるように起こっているのであって、

私達が思い煩っても起こる事は起こるように為されていくのであり、仕事や人生の心配は何も必要がない

仕事や行為は為されるように為されていく、心配してもしなくても、良いことや悪いことは起こるように起こる)


④言葉を使用しないで、ただただ静かに深く自己自我に沈潜し自己自我をただ凝視すること

(その自己自我を静かに見つめているその課程で、自己自我はその見つめることによって脱皮していく・・と教えられている)

(心が心を無心で見つめることによって自らが変身していくのだ)


⑤判断・評価・損得・達成・獲得・善悪、好悪などは見ることを妨害する

心こそが私と言う自己意識であり、判断している記憶の反応であり、それは「見ること」を妨害している思考だ

それらの思考の働きである判断や評価を交えずに自己自我を暖かく見なさいと言うことだ

「見」の中には頭脳からのものと、ハートからのものが在るのだが私達にはその識別が出来ないのだろう


⑥観察者として観察対象を見ないこと

私が自我を見ているのではない、私が恐怖や絶望を観察しているのではなくて、私が即恐怖であり自我である

 私が生起している自我を観察しているのではなくて、その観察している私とは、その観察されている自我であること

 利得心や慢心が生じているのではなくて、その利得心や慢心を観察している私がその利得心や慢心であること

私が感情や思考や欲望を観察しているのではなくて感情や思考や欲望がそれを観察している私であること

このような見方でもって見ることが「思考なく見ること」へと繋がるのではないか