演じられている私
この私・意識的自己とは演じられている自己であろう
この考え方は非常に一般的ではないので、誤解が起こるかもしれない
通常は私は演じており、いろいろと仮面を付けて演じているのはこの私だと思われているのだが
その演じて仮面を付けている私こそが、実は演じられている私であるのではないか
カルマとサムスカーラを伴って特定の肉体に入った私とは、即ち演じられている私のことである
それは個別的霊魂として諸体を伴って肉体と結合した私の事である
肉体は私ではなく、諸体も私ではないのに、
その思考と行為が起こっている肉体と諸体が生み出した現在のパーソナリティーを、
その肉体と諸体の結果であり、その状態であり、その段階である現在のパーソナリティーのことを
私だと思い込んでいるのは個別的霊魂なのだ
この私が特定の肉体と一体化したが故に、行為が為されている諸体を自分であると実感している
思考や欲望や健康や家庭のことで思い煩い、忙しい仕事のなかで、一喜一憂している個性のある私
それらの私とは現在のパーソナリティーという思考・感情体のことであり、起こっている映像・現象だ
その映像に自己同一化しているのが個別的霊魂であるといわれる
出来事と共に起こっている諸体即ち現在のパーソナリティーを自分であると実感してしまっている
このそれらの私を知覚し、認識している私こそが、演じられている私即ち個別的霊魂の事であろう
吸気と共に肉体及び諸体と結合し、呼気と共に肉体から去るのはこの演じられている私であり
カルマを背負って、サムスカーラ(過去の人格の記憶)の連続で構成されている私と共にいる私
この意識的自己こそが演じられている私のことである
肉体や諸体を使って行為を為し、思考や感情を起こし、知覚や認識を起こし、そして出来事を起こし、
個性ある人格や個人として生きておられるのは、
自分が生きていると思っているその当の個人であるサイコノエティック体という現在のパーソナリティーでもなく
その現在のパーソナリティーを自分だと錯覚している個別的霊魂でもない
それは源泉である、未知なる根源である
現象界を動かしているその源泉が演じておられるのが、この自己意識である私
この私こそ「演じられている既知なる私」・個別的霊魂であるのではないか
しかし賢者の言う私とは、
演じられている私が同一化している肉体でもなく、
感覚や知覚や欲望で構成され、記憶し、行為が為されているその反応を起こしている諸体でもなく
その肉体と諸体を私と実感しているこの演じられている私・個別的霊魂の内奥にある未知なる真の私
演じられている私の内奥ですべてを観照しているわたしのことである
それは個別的霊魂の内奥であり、自他の分離のないわたし
全ての人の内奥にあって、全ての人の演じられている私を見ている、全ての人である「わたし」のこと
この全ての人である「わたし」、その「未知なるわたし」のことを「真の私」といっているのだろう
その全ての人にあり、全ての人であるわたしとは肉体でもなく、その肉体や諸体の記憶の反応でもない
死後、一時的に生き残る諸体でもない、それは行為している肉体でもなく、思考する思考体でもない
それは思考や感情ではなく、知覚でもなく、認識でもない
また、この諸体を私だと思っている「演じられている私」即ち輪廻して継続してる私でもないことだろう
それはこの輪廻し継続する個別的霊魂の内奥にあって観照しているわたしのことだろう
賢者ならばそれを「愛」と呼ぶことだろう
この「わたし」とは行為でもなく、思考でもなく、記憶でもなく、記憶の反応でもなく、欲望や衝動でもない
感覚や知覚や認識や「他と分離している私」でもなく
演じられている私・個別的霊魂でもなく、心でもないと云う
その全ての人にあって観照している、この「わたし」とは、
この演じられている私や諸体や肉体にとっては未知なる「わたし」ではあるが
この「わたし」こそが真実の私であり、全ての人の内奥である「真のわたし」だと言われるのだ
この真の「わたし」とは
自他に分離分割しておらず、記憶や知覚や認識の対象ではなく
過去現在未来という時間の制約を受けず、此処と彼処という距離を持たず
対象と分離していない絶対的主体であり、対象を持っている主体ではないと
対象を持っている思考や心や知覚や認識とは真の主体ではないと
未知で真の主体とは思考や心や知覚や認識ではない「意識そのもの」であるといわれる
対象そのものである主体、すなわち「見る者は見られるもの」と観照し
「われはそれなり」のわたしであると云われるのである
それは在るものであり、「なるもの」ではないといわれるのである