思考者と行為者





通常の人生の中では行為者とか思考者とかいうような言い方や考え方はしないのだが

本日は行為者、思考者について思索してみた


行為者とは「私が行為していると実感している私」即ち「行為している私」のことを指し

思考者とは「自分が思考していると実感している私」即ち「考えている私」のことを示している

この両者はプログラミングされて起こっている行為と共に発生している意識であり

自分が行為し、自分が思考していると実感している私とは、

行為と思考が生み出した自己であるわたしであると教えられている


これが通常の私、現在のパーソナリティーであり、意識し、意識されているこの現在の私・自己のことである

であるから理論上では”私も誰もおらず、私も誰も何もしていない”ということになる


では詳しく見ていこう


思考者であるわたしは本当に私が思考しているのか、それとも思考はただ起こっているのか

その思考が即、私であるので

その思考する私とは、起こっている思考そのものであり

私が思考したのではなくて、特定の思考が起こっているのである

であるので「思考している私」「考える私」とは、その起こっている思考であり

その起こっている思考の記憶の反応であり、その記憶の反応としての自己意識なのだ

私とは、「起こっている出来事」に対する「起こっている思考」の蓄積した「記憶」の反応なのではないか?

それがこのわたし、行為している私、思考している私、即ち自己・現在のパーソナリティーの実相なのではないか

私=反応(私)とは、起こり継続している事柄(記憶)なのではないか?

肉体もエーテル複体も思考.感情体(サイコノエティック体)も観照者の前に起こっている


即ち、私、思考している私、自分が思考し考えていると思っている私とは、生起している思考自体なのではないか?

行為も同じで、行為している私、自分が行為していると思っている私とは、起こっている行為が生み出していると


この「自分が行為している」、「自分が思考していると実感している私・思考者、私・行為者」とは

起こっている思考と行為のことであり、その記憶であり、思考と行為が生み出しているのではないのか

それ故に、その私自己は当然「自分が思考し行為している」と実感している


実は

私が考えているのではなくて、ある特定の考えがこの頭脳に起こるべく起こっており、その起こった考えが

「私が考えていると実感する私」、即ち現在の私・現在のパーソナリティーを生ぜしめ維持している

私が嫉妬しているのではなくて、嫉妬が起こり、その嫉妬が起こった直後に「嫉妬している私」を生み出し

その起こっている欲望・想念の不完全な記憶が反応し「私は嫉妬してはいけない」と反応している



であるので

「私が考えている」のではなくて「起こっている考え」が「その考えを考えている私」自体なのではないか?

そして、その生起した私とは未知なる観照者の前で記憶され継続しているので

(観照者に付帯している記憶・コーザル体は継続している)ので、

あたかも私・思考者が継続しているように感じられるのであろう

「私という観念」の記憶がこれら運命とカルマを持って行為するサイコノエティック体と肉体に同一化している



行為は私が行為しているのではなく、起こっており、神の宮である肉体と諸体が行為しているのだ

その起こっている行為は、その都度「行為している私」、行為者を生み出しており、

一定の観照者の前で記憶は継続しているので、その行為の記憶・行為者が数珠の様に継続していく

「わたしが行為していると実感する諸体の私」の維持と継続は肉体の生死を超えて続いていく

観照者が一定であるからだ


私とは未知なる観照者の前で起こっている行為と思考そして知覚であり、その継続する記憶なのだ


その起こっている思考・行為・知覚・経験が思考者・行為者・知覚者・経験者を生み出し

その記憶が私を維持させている


とのこの思索も、この私も、知覚や体験と同様に起こっている・・・

脳も心も行為も知覚も経験も私のものではなく、

その逆に脳と心と行為と知覚と経験が私を生みだし維持している

思考者・行為者・経験者という私とは「私という観念」の錯覚であると言われている