経験者




経験者とは現在の私のことであり、行為し、思考していると思っている私である、それはまた観察者でもある  

それは出来事に反応している私、親しい関係にある場合には立ち向かう人として認識される自己、即ち現在の私

であり、この現在の私とはハートに位置しており、起こっている出来事に対して一喜一憂し、喜怒哀楽している私  

のことである、この現在の私を見ていろいろと評価し判断しているのが自分を観察していると思っている、その観察

者自身である、この現在の私とは貼り付けられた私であり、起こっている私、反応する私、条件付けられている私、

記憶の私でもある、神の演技と言われている私である                                    



「自己を見る目が誕生した場合」

自己に気づくこと、自己を見ること、自己を観照することは「起こる」と言われており、その自己をみる目は私を含まない、

この場合の自己を見る主体の中には、自己が全く含まれていないので、「私が私を観察している」と言うことはできない  

この自己を見ている目は私ではなく、個人や人格でもないので自己を「観照している事が起こっている」その時、自他という

自己意識の存在はあり得ない                                                      

 その自己を見ている目の中には「私」もなく、「私が行為している」もなく、「私が生きている」もない・・これは常識を越えている

   意識状態であり、科学や医学ではこの意識状態を理解できないので異常扱いすることだろう                     

もしこの関係性で顕わにされる自己・自我が知覚され、見られるなら、その知覚し、見ているものとは自己ではなく私でもない

その観照し見ているものは私を全く含まない純粋な目であることだろうか・・・・                            

これが                                                                      

現在のパーソナリティーを見ている永遠のパーソナリティーと言われている目のことであり、観照者とも言われている目だろ

うか?この目の出現は、自己と言う見る主体を全く含んでいないので、観察者の目とは異なっており観察者を観照している目

 とも言われている「無我・非我」の目のことであろうか                                            



自己に気がつくこと、私を見ること、・・・これらは起こる事であり、この見ている目には自己がいないので「私が見ている」

「自分が自分を見ている」と言うことが存立しない状態なのであろう、自己を見ているとき見ている私はいないと言われる   


この私を含まない目は観照している目とか観照とか言われており、現在のパーソナリティーを観照している永遠のパーソ  

ナリティーの目のことである・・この状態は最低レベルにある現在の地球の常識という意識段階では計り知ることが出来ない


しかし自己を見ている場合でも、その「見ていること」が、観察者というその「自己の運動」の範囲である場合            

その観察者は人格を持っており、個人である私とは、現在の私であり、その現在の私とは「自分が行為している」「自分が考えて

いる」と実感している                                                                

そしてこの自己意識を持っている私は起こっていることや出来事に反応する、この反応している私は源泉によって演技されてい

る私、根源による作品としての私であり、この私を観照している「私なき目」ではない、「私なき目」とは源泉の目のことでもあるの

だろうか                                                                        



源泉によって生起している私、演技されている私とは関係性を鏡として目の前の人として知覚される私であり、それは自己の  

観察者であっても、動機と目的とを持っており、自他の分離感を持つ以上は自己を見ている目ではない               

従ってその私を含む目は「観察者」であり、自己を観照している「私なき目」でない以上は、必ず「私は行為している」という実感を

もち、必ず起こっている内部と外部に巻き込まれ反応するのである                                     

・・何故ならそれは巻き込んでいる出来事が起こしている私であり、行為が起こしている行為者、思考が起こしている思考者であり、

自分が観察しているという自己の実感を持つ観察者であり、それは無明という「私という観念」が起こしている私であるからであろう