良きことと良くないこと
私達は肉体に入った以上は、良きことと良くないことを必ず経験すると言われる
それは肉体というカルマと運命によってプログラムされている身体に結合したからであり、そして
為された行為が更にカルマや諸体や運命となって、新たなる肉体を得ることになったこの私に、
引き寄せられていき、この輪廻という循環は続いていく
この私が自分は肉体だと思い込んでいるので、その思いの通りにカルマや諸体は連続する身体に引き寄せられてしまう
ではこの肉体と結合した私とは誰なのか?
この肉体の行為を自分が行為していると思っている私とは、この身体と結合した現在のパーソナリティーである
この現在のパーソナリティーとは肉体の頭脳である才能や疾患や頭の良さや悪さとは関係しない肉体に入った私である
それは「無知である私・地球人類という単一のマインドである私」であり、その本質は恐怖そのものであるものだ
私とはこの地球人類であり、人類とはこの単一のマインド、それは私という観念=自我のことである
すなわちそれは地球のマインドであり一人の人間であり、全体である人間だ
それは人体におけるひとつの細胞のようなものである
地球で単一だが、それを構成している何兆とある細胞である私とは自我と呼ばれている私という観念である
マインド・心が即ち私という観念がこの私である
・・・・この一細胞がある特定の肉体に入り、そのプログラムを持った身体及び諸体と結合したとき、
良きことと良くないことを必ず経験するであろう
ということである
人類の「一細胞」である私は、結合したその特定の肉体が持っているプログラムと役割と役目に従って、
その肉体の誕生から死亡までの間、予め決められている行為と出来事が決まったように起こり、
予め決まっている場所と時刻にそれは起こり、それを体験することだろう、「自分」の行為として・・・
そしてその体験は一細胞を通じて大元の地球人類の心に記録されると
だが特定の身体に結合した「私=人類」には起こる事をコントロールすることは出来ない
私達はコントロールされているものであり、肉体や諸体と同様に結果として起こっている現象・投影なのである
それは予め決まっている様に出来事は起こり、特定の行為をするように特定の感情と考えと欲望と意志が起こり、
その実現のための観念と計画・理念・目標・理想、そして選択が起こっているのに自分が為していると錯覚する
この身体と結合し、「私の行為」「私の成果」「私の失敗」「私の欲望」「私の計画」と錯覚しているこの私には
戦争と平和を起こすことも止めさせることも出来ない、それは起こるように起こると言われている
誕生と死亡、出会いと別れ、恋愛と破局、憎悪と愛情、成功と失敗、健康と病気、罹病と快癒、結婚と離婚、快と苦、絶望と希望など
これらの予め決められている消化すべき運命とカルマに従って、この肉体と諸体は起こるべき出来事と行為の中を通過していく
出来事は起こり、行為は起こり、その行為のための意志が起こり、意志のための計画や感情や考えや欲望が起こっている
外部と同じように内部も予め決まったように起こり続けている
ここには自由はなく結果だけがある
それは丁度ハツカネズミが休むことなく檻の中を一生懸命に走り回るように、私達は虚しい努力を重ねる
自他の分離の中で、私とあなたの区別の中で、虚しく転生を重ねる・・それは身体と同一化したからだ
私達自我は、自らが脱皮し変身することなく、また生まれ変わってしまうのだ
私達とは、自他に分離していると思っているが実は分離しておらず一体である地球のマインドなのだ、
私達とは自我であり恐怖であり、私という観念なのだ、そしてその記憶なのだ
また五つの鞘としての根源の演技そのものなのだ
”この私という「私という観念」とは各体の脳で受信された思考の記憶であり、記憶の集合体とも考えることが出来る
この地球に於ける最初の脳からずっと受信されてきた思考の記憶の集合体が思考帯であり、私という観念なのかもしれない
しかし、これらの私とは思考や私の根源、源泉である真我ではない、真の主体ではない、主体だと錯覚している心だ
私は真我であると思っているのは思考の記憶体であり、私とは地球人という集合的記憶、迷えるマインドなのだ”
但し、このことを久保栄治のように、知ったかぶりをして話したり
これらをただ観念的に、知識や情報として記憶していることとは誤解していることであり理解していることはではない
またこの事を信じたり、信仰して信念を持つこともその信じることとは単なる観念であり、観念なき理解ではない
理解とは記憶の反応や考えではなく、自分という感覚を全く含むことのない観照であり静寂であるからだ
事実とは考えや信念や信仰などには一切関与しないし影響されない、それは1+1=2のように絶対的事実だからだ
この理解の欠如という悲しむべきことは、同じく起こっていることでもある
それゆえ私達は目を覚まし自己を観照しなさいと言われ続けている
では、目を覚ますと言うことはどういうことなのか?
それは地球人類で一体である「私という観念」、この全体を構成しているこの「心」の一細胞に脱皮が起こり
この脱皮若しくは再誕生がこの全体の細胞に伝播し、そして更に連鎖して多くの未知なる意識の誕生が起こり
この人類という地球上の「私という意識体」全体に革命と脱皮が起こって、
分離していない意識、時空に束縛されていない至高の意識との共振が起こり、高次の知覚が起こり始め
そしてこの高次になった意識体として他の惑星や恒星達の方々と一緒に働けるようになることであると
それにはこの何兆とある細胞の一細胞であるこの私という観念と五つの鞘に変革が起こり、そして脱皮が生じることである
そのためには観照と受容というワークを通じて、自我の一部であるサイコノエティック体の再形成が必須であるといわれている
この事が心霊的ではない新たなる超感覚、超知覚の扉を開くと言われている
そしてこの一細胞にその新たなる意識の変革が起こることにより、
地球人類全体としての私という観念=自我(エゴ)に革命が起こり始め
時空を超越している「未知である普遍の私」との共振が始まることだろうといわれている
従って、地球の人類として一つの意識体であるこの私という観念(自我)が私達なのではあるまいか
私達は肉体ではないのだ、また諸体でもない、肉体と結合した人類・地球の意識体なのだ
肉体は最高傑作である(しかしこれを神の最高傑作と言うとき、その神とは私達の思考の創作であって神ではない
頭の中で思考によって神という概念が作られたのであり、その神とは思考の産物であって、未知で非分離の神聖なる意識ではない)
現象界がある限りは、肉体は誕生時に決定されている行為と出来事を消化していくことだろう、
そしてそれを引き起こすための衝動や欲望や願望と選択を行うサイコノエティック体を伴いながら
次から次へと行為と思考は続いていく・・・「私が」「私の」「私を」として・・・
これらの私も、そして私が行っている行為も演じられている劇場の演技であり、ストーリーなのである
この劇場で泣いたり笑ったり、喜んだり苦しんだり、満足したりしている演じられている演技と私達は一体化しているのだ
私達である「地球で一つの私という観念」はこの演技に巻き込まれ全く自己同一化してしまっている
この演じられている演技とは演者(根源・源泉)が行っている演技であるのに
私という観念である私達はこの肉体に入り結合したが故に、演者(根源・源泉)のことは忘れ果て
この「肉体」が行っている行為や起こっている出来事に巻き込まれているのだ
次々に起こる思考や感情、意志、計画、観念、失敗と成功、良いことと悪いこと、快と苦、喜びと悲しみ、意識の拡大と縮小
これらに巻き込まれてしまっているのである
けれどもそれらは起こるのだ、起こるべくして起こっていることである
私達はこの神聖なるマーヤという劇場の演技をしている演者の演技である肉体と諸身体と人格に結合してしまったが
演じている演技を見ている観客としての目を持つべきなのだろう
私達は地球人類として一つの意識体であり、私という観念であり自我そのものである心なのだ
それ故もしこの人類の一細胞に条件付けからの解放が起こり、自他の分割のない大いなる非分離の知覚が誕生したとき
この細胞は脱皮を起こし、新たなる高次元身体を自由に使うことが出来、未知なる分離のない次元との共振を起こし始めることだろう
そしてその変革が次々と連鎖を起こして
「地球人類というマインド」は一つであることを取り戻し
未知であり大いなる非分離の意識とともに
地球人類の単一の意識体としての新たなる宇宙のステージに立つ事だろう