私という観念の特徴とは




これは非常に分かり難いテーマであり、この私という観念について思考することはかなり複雑なので静かにならなければ

進んでいくことが出来ない事柄ではあるが、未熟な私があえてこのテーマについて自分なりに挑戦してみたい


この「私という観念」のことを単に「思考」または「観念」とだけ言う場合もあるが、この私という観念のことを根本無明とよぶこともある

これはまた統覚機能から投影されている根本無明ともいわれている


通常の生活ではなかなか意識され難い自己・自我の大元であるのがこの「私という観念」であると思われる


それは特定の個人のものではなくて、その逆に特定の個人がその「全人類的・全地球的な私という観念」という意識体の一部といえる

故に、この「私という観念」について思考している、この「現在の私」とは、まさに私という観念そのものなのであろう

意識的自己・現在の私とは、私という観念であり、それ自体なのだ、この現在の私とは、個ではなくて地球で単一の私という観念なのだと



また私という観念とは、「聖なるマーヤ」とも言われている


この「私という観念」とは地球を被っている思考帯のことなのではないか?

それは全人類に共通の心・マインド、私達個人の深い心そのものなのではないか?


全人類の集合意識、全人類の意識の集合体、これは根本サーバーというより、ネットワーク自体なのかもしれない?


私という観念がそれぞれの肉体に結合し、肉体と自己同一化しているので、

それは、すべての人類個人の意識を構築している地球規模の意識体なのではないか?

私という観念が各個人の根底にあり、それが人類の意識そのものであると言える、

分離した個人を意識しているのは個人ではなく、個人に現れている地球規模の集合意識なのではないか


その私という観念が肉体に入り、肉体と自己同一化し、肉体に起こっている行為や出来事や欲望や思考などに反応しているのではないか?



この肉体を私だと思っている「私という観念」が自我の根本であろう

これはシステムなのであり、それは私達のPC(頭脳)とそれらを繋いでいるインターネットというネットワークと似ている


私達の肉体と連動して機能するサイコノエティック体がそのネットワークのシステムを構築しているのではないか?


ではその私という観念とは具体的に一体何であろうか?私達の意識のなにを指しているのか?

それはサイコノエティック体すなわち、肉体と繋がった各種の鞘のことなのか?

各体という鞘も含めてこの現象界を持続するシステムとして、この脳のネットワークが存在しているようにも思える



元に戻り、この「私という観念」を一人一人の個人に於いて見てみると

それは各人の意識に生じている起こっている出来事や起こっている意志や想念と欲望に同一化して反応する根本想念、それは

脳やその記憶から生じている根本想念であるように思われる

・・・それはマインドそのもの、アハンカーラ(自我)そのものであるように思われる



私達各人の意識、それは、個々の頭脳で受けとる思考・感情・想念・欲望であり

またそれと同時に

それらの起こっている思考・感情の記憶の反応であり、脳の条件付けと記憶のシステムから生じている意識であるといえる

このシステムが私という観念を支えている様に思える

このシステムそのものが私という観念と密接に連動している様に思える



起こっている行為や欲望や出来事、起こっている各種の思念や観念、又繰り返し出没するカルマからの衝動に対して

反応を繰り返して「わたしはそうであってはならない」と自己批判をする私、

即ち脳システムが生み出した記憶の反応とは、それは又感情体思考体のことでもあり、その背骨は「私という観念」である



現在の私とは、起こっている行為や起こっている思考、起こっているカルマに対する記憶の反応であり、さらにその反応

から生み出され凝集したエレメンタルの意識のことなのであろう、

そして、それらの大元にあるのが自我そのものであり無明でもあるこの私という観念であるのではないか



ラマナ・マハリシが言うように、私という観念から想念が発せられ、その想念が言葉となり、言葉が言語となって文明を支えている

私達人類の意識の共通基盤は私という観念であり、それゆえ言語は異なっても想念は同じなので異国間での意思の疎通が出来るのだ

各国の人類の意思疎通の基盤は、この文字言語→言葉→想念→「私という観念」にあるが故だとも思われる

テレパシーに於いては、それぞれの言語は使用されず、人類共通の想念として送受信されるのであり、その想念は私という

観念から生じているといえる、テレパシーとは私という観念の中に起こっている事例であるが

私達現段階の人類とは人類共通の

集合意識としての私という観念にさえ到達していないのでテレパシーが使用できないのではないか




ではその私という観念とは何か?内面ではどう働いているのか?

■ 自我、根本自我、肉体のことを私だと思っている自意識。競争心、愛のない心、利己的、高慢、暴力、強欲な現在の私   

■ ~になろうとすること、なる過程、Bcoming、時間を含んでいる意識、過去現在未来という今を分割している意識・恐怖   

■ すること、自分が為している又はしているとの実感、行為しているという私、およびその結果を被る行為者・自我としての意識

■ 自由意志、意志、私の意志という感覚、自分が生きており、他人とは異なる自分の人生であるという感覚・自他の分離感  

■ 選択していると実感している私、私が選択し、私が決定しているという実感                              

■ 思考そのもの、思考は当然「思考している私」という感覚を含んでいるので、思考している私・思考者              
 
■ 感覚と知覚と同一化したもの、現在の感覚や知覚とは各体の脳の作用であり、この脳と一体化したのが私という観念である


現在の私達の感覚や知覚とは、肉体と一体化した私という観念によって矮小化され歪められている知覚であり感覚だと思われる

もしこの感覚と知覚が私という観念によって歪んでいなければ、分離していない共感する世界が現出することだろう




現在の私とは、まさにこの「私という観念」そのものであり、人類共通の意識の一部なのだ、共通の人類のマインドなのだ

現在の私こそ、自分が行為していると実感する思考それ自体、行為と私という観念によって生じている記憶の反応    

現在の私こそ、自分が思考していると実感している思考それ自体、私という観念によって生じている思考の反応      

現在の私こそ、自分が生きていると実感している記憶それ自体、私という観念によって生じた思考や観念の記憶そのもの

現在の私こそ、これを書いている「私という観念」そのものである、その記憶だ                          


そして、「私という観念」とは先哲によれば空という根源から生じている現象だとも言われている根本無明のこと

より霊的解剖学から言えば統覚機能という個別的霊魂から投影されている、現象、神聖なるマーヤ、マインドのこと

各惑星単位で機能している意識体(想念帯)ともいえるのではないか