見ることとは起こること
見ることとは、起こることであると言われている
見ることとはすることではない
同様に、在ることは起こることだと言われている
「思考なく見る」ということとは、「私である思考とその記憶の反応」の範疇にはないことだ
「思考なく見る」とは意志の問題なのではない、見るとか見ないという問題ではない
通常の見るとは「見ている」のではなくて条件付けられている記憶がある状況で反応していると言うことなのだ
「在ろうとするのではなく在りなさい」、「私なく見なさい」と私達は言われ続けている
また「思考なく見る」と言うことは、行うことや、することや、なることではなく
それは起こることだと言われている
私達が「思考なく見ようとすること」とは、思考の働きそのものであり
意志でもって、思考停止をしようとしても、それは思考が働いている証拠であるといえる
思考が私だからだ、意志が私だからだ、そしてそれらは起こっている反応なのだ
理論的には私が無いとき思考はなく、そして見る事がある、といえようか
だから、「思考なく見ましょう」と私達が口にした場合
それは自我が「自らである自我」の終焉を口にするようなものであり、それは自己欺瞞と言える
それは巧妙な自我の延命の動きであることだろう
私達が「在ろう」とすること、「思考なく見よう」とすること、これは思考の働きであり
その「在ろう」と願うことは、「在る」ものからではなく、「在るものではない」ものから出ている、思考・自我から出ている
「在るもの」であるなら「在ろう」とはしないことだろう
それは既に「在る」からである
この「在る」ことと同じく「見ること」も
「見ている」ものであるならば「見よう」とはしないことだろう、
既に「見ている」からである
「見よう」とするものは、見ていないものであり、故に見ることができないので見ようとする
「見よう」とすることは思考の記憶の働きであってそれは見ていることではない、記憶の反応に過ぎない
「自分が見ている」と実感することとは思考の働きであって、反応が起こっているに過ぎない
この記憶の反応が生起している限りは「見る」ことは妨害されている
思考にとっての正しい思考とは「私は見ていない」「私には見ることが出来ない」・・が正しいと言える
自分が見ている又は私は見ることが出来るとの実感は思考の反応、記憶の反応だ
意見とは反応であり、それぞれの考えや見方とは起こっていること、反応が起こっていることだ
私とは即思考であるので実は私が見ているのではなくて脳の条件付けに従って反応が起こっているだけである
思考には「見ようとすること」「見ていると考えること」は出来るが、決して見る事はできない
見ようとする私がなく、見ている私がどこにもいないとき「見ること」が起こるのだろう
思考が見ている内部と外部とは思考そのものであり、それは記憶であり、思考という色眼鏡を通じて見ていて
その内部と外部とは思考の反応のことであり、実際のあるがままを見ているわけではない
私にはあるがままを見る事は出来ない、目がないからだ
私とは思考であり、思考の記憶の反応だからである
私が見ているのは思考の世界であり、脳の世界なのだ
記憶・私は「条件付けられている記憶」という色眼鏡を通じてのみ内と外を見ているので
それは覚者の言う「思考なく見ている」状態なのではない
思考即私とは、なろうとする運動であり、その私とは恐怖それ自体であると云われている
この私とは恐怖なのだ、記憶の反応なのだ
この私・思考は自分が生きており、自分が行為していると実感しているので、
私とは私個人の独自のパーソナリティーだと、そのように必然的に感じており
自己実現しよう、悟ろうとし、実現しようとし、あるがままを見ようとさえする
けれどもこの見ようとしている私とは記憶であり、その内実は恐怖と憎悪と慢心と競争心と所有欲なのだ
そしてそれらは動機、目的、となり理念、目標、希望、信仰、非暴力、計画、将来の夢などで身を飾る
この私・思考は「思考なく見ること」とは起こる事なのに、見ることとは自分の範疇に有ると思っている
けれども、見ることは実践するとかしないとか言う問題ではない
賢者は「なることは、在ることを否定すること」だと言われる
「なろうとすること」こそ私達である私という観念であり、心であり、思考のそして恐怖の本性であるからだ
心の止滅、思考の停止、思考なく見ることの訓練などこそがマインドの反応、記憶の反応であって
このエクササイズの延長線上には決して見る事は起こらないことだろう
体験者、経験者がいなくなることは起こらないことだろう
従ってそれはマインドの範疇であることだろう
見ることとは起こる事であり、
見ようとすること、自分は見ているという妄想こそ思考の動きであることだろう
思考の記憶が見ている内部と外部は夢の世界であり、それは知覚され体験されている世界であることだろう
また、「私は主体」であり、「私が行為」して、「私が生きている」というこの実感も、妄想であり思考の働きであることだろう
私という観念から思考が起こり、その思考が記憶となり、記憶の反応が私の実体であり、そして更にこの
私という記憶からエレメンタルが生み出されている
行為や思考から生じた記憶が身体と結合し私が「私が行為している」「私が生きている」という実感を感じている
この「私が為している」、「私が意識している」「私が生きている」「私は主体である」「私は自分の自由意志で選択している」
と思考(私)は必然的にその様に誤解するが故に、なろう、至ろう、自己実現しようとする
この思考の働きに、自らが得度し、自ら静まり終息しない限り
見ることは起こらないのだろう