憑依
憑依というとすぐ私達は憑依霊とか怖いイメージを思い出すが、今日はそのことを考えてみた
実は
この久保栄治・個人人格とは憑依霊と同じかもしれない
と言うと吃驚されるかもしれない
しかし、受胎と同時に肉体に入り、肉体と同一化し、自分が行為していると実感しているのは、この私・自己に他ならず、
この私・自己とは過去世からの脳の条件付けの結果である連続体であり、その記憶であり、その記憶の反応である
また
この私とは、死後、肉体から離れても、自分は身体だと思っている自我体であることには変わりがない
この憑依した?久保栄治とは自分は肉体ではないのに自分は肉体だと思っており、当然他者のことも肉体だと思っている
そして
この肉体を私だと思っている「肉体と同一化した私」が個別的霊魂や生命と一緒に最初の呼吸と一緒に
また新たなる肉体に宿るのである
この意識的自己・私・自我とは連続する記憶体であり、数珠の様に多くの過去の人格=記憶体から構成されている
それはまた
この自我・私・自己意識とは各体の脳の条件付けから生じている記憶の反応であり、想念形態・エレメンタルでもある
この記憶の反応体=エレメンタル・想念形態こそが私達自我である自己意識なのではないか
このシステムによって生み出された自己意識である私=エレメンタル・想念形態である私は
肉体を通じて行為が行われているのに、肉体に憑依している私はそれを自分が行為していると実感するのだ
ラマナ・マハリシ達が言われる「私は行為していない」と自覚する私とは、全く異次元の未知なる私のことであり
そのラマナ・マハリシのいう言葉はその次元の意識からの言明であって、私である記憶の反応には誤解しかない
私達、この意識的自己・自我とは脳のシステムの条件付けに因り生み出されている記憶の反応・想念形態であり
肉体に浸透したので、「自分は肉体だと思っている憑依霊」という想念形態と本質は変わらないように思われる
ただ行為とはこの肉体と同一化している私達・自我を通じて為されているので、肉体と一体化している私達・自我
にとっては、当然のことながら、自分が行為していると思っている
それなのに
この、肉体に浸透したエレメンタルである私・自己は自分のことを「私は高次の存在だ」、「自分は魂だ」と思っている
だがこの条件付けに因って発生している記憶体の本質とは「分離」「恐怖」「暴力」「狡知」「欺瞞」「競争心」「不安」
「高慢」などがその内面・実相であり、自己欺瞞がその本質と言えよう
更にひどい自己欺瞞とは
賢者達の教えのその「未知なる私」を概念で構築し、その概念と一体化して「私は行為していない」などと嘘をつくのである
この意識的自己・自我は肉体と一体化しているので、行為を自分が為していると実感せざるを得ないのである
「愛ではないもの」「未知なる真の私ではないもの」「分離しているもの」「恐怖であるもの」「暴力であるもの」それが
この肉体の脳の条件反応によって生み出された記憶の実相であり、それが自己・自我・自己意識に他ならない