反応と観察者




日常に於ける私達の意識とは何か・・それは思考であろう、ではそれは一体何か?その思考とは何だろうか?

私達が思っている観念や想念その思考とはどこから生じているのか?その真の姿とは何なのであろうか?

その思考を産み出している私、考えている私、意識しているこの私とは誰なのであろうか?

私が考えている、私が楽しんでいる、私が望んでいる、私の自由意志だ、私の行為だ・・と誰もが思っている


この世界の全ての人が疑っていないこの常識

それは


・私という実体がまず初めに存在していて、そしてその私が,諸々のことを欲し、望み、考え、行為している・・と???


それは本当にそうなのか?それとも

各体の脳の「記憶」の反応が起こっている、

即ち、その記憶が「起こっている内と外の出来事」に対して、

その記憶の条件付けに従って機械的・自動的に反応を起こしている・・ということ

その「記憶の反応」が思考と呼ばれており、その思考が私と言う感覚(虚偽の私)それ自体であると


すなわち

実は私が考えているのではなくて、考え・思い・想念という記憶の反応が常時、自動的・機械的に起こっており

「その記憶の反応」が私という実体感覚を生じさせているということだ

記憶の反応が「私はこのように考えている・思っている」という存在していない私・その実感を生み出しているのではないのか

(この場合の記憶とは各諸体の脳の記憶であり、又エレメンタル、ワサナ、人格など諸々の質料の記憶のことである)


私とは

「正確に起こっている化学反応」の様に、思考・想念という「記憶の反応」のこと・・・なのではないか


記憶の反応が生じさせている思考=私

それが通常の私達の日常の意識ではないか、それが偽らざる私達の内側で起こっていることなのではないか

その記憶からの反応=思考が「私が思考している」「私が思っている」「私は感じている」という私意識・自己感覚を

即時に産み出していると言われているのだ


記憶の反応とはある特定の物質(次元の異なる物質も含む)の働きなのではないか

それを科学者は脳内のホルモンや脳内物質の化学反応と言っているが、

それはこの脳だけではなくて質料全般に於ける反応なのであろう

(霊的記憶反応も物質の記憶反応も同じく質料の働きである)




さて記憶のこの反応から、更に二次的な反応が起こってくる・・


「私がこんな風に思っているのは良くない、だから良くならなければ」、

「自分を変えてより良くならなければいけない、その為に祈り瞑想しよう」・・と

それらの記憶の反応から、さらにその反応に対する反応が起こってくる


・・・それが自己改善を通じて自己変革や自己実現を目指している観察者の登場のことである


しかしその自己を評価判断し、自己に対して非難したり、逃避しようとしているこの観察者とは誰なのか?

実は観察者とは他ならぬ、その記憶の二次的反応のことであり

その記憶の反応が凝集し産み出している二次反応=自我の反応なのではないか

人間が作ったロボットが記憶を持ち「自分はもっと良くならなければ」と思考するのと同じだ



ある設定された出来事・状況で行為・内面の衝動・感情が起こった場合


その状況において、ある特定の記憶体からの条件づけられている決まった特定の反応が起こる

それが自我・現在の私の反応であり、考え、思い、感情、欲望、意志、選択などである

それに対して、その自我が同じ自我に対して自己を評価し、非難し、嫌悪し、良くなる方法を模索する


(これは自己と言う意識を持っているワサナ・エレメンタルにしてもまたは人格、と呼ばれている

今生の自我にしても同じく記憶からの反応であり、同じ次元であることにはかわらない)

このようにして、その反応の直後に、更にその反応の記憶から産み出されるのが観察者という自我だ

「私はイライラしている」「私は恐れている」「私が計画している」「私が選択している」「私が意志している」

だから、私は自分をコントロールしなければならない・・などという

自己を対象化する意識=自己を客観視する自我が形成されていく

この自我が自分自身を観察することにより自分は自我とは異なっている観察者だと主張するのだ



観察者の出現

このように私という実体感覚から更に、その反応が二次的な記憶体を作り出し、その記憶体が二次反応する

「この欲望はいけない、私は良くならなくては」「私は恐怖している、この恐怖を解消すべきである」

「私は自我を克服しなければならない」などという自己や思考への観察者が産み出される、

そして自己実現と称するワークや修行や瞑想が始まるが、

その観察者とは同じように記憶の反応なのではないか


意志を持っている私とは特定の記憶からの反応である思考・想念・感情から生じた思考の働きである

その私も、その自由意志も共に記憶の条件づけられている機械的反応なのだ

そして、その私という実体感覚の反応から更に生じているのが

自己を観察する観察者という記憶の二次反応

観察者も同じく思考なのではないか





脳とは私のものではない

記憶とは私のものではない

記憶の反応とは私のものではない

思考・欲望・想念とは私のものではない

選択や意志や行為とは私のものではない

私とはその条件づけられている記憶の反応なのだ

私とは肉体と結びついた諸々の記憶体の条件反応なのだ

それらの脳も、記憶も、行為も神聖なる起こっている「マーヤ」である

故に

私とは私のものではない

だから

私も含めて私のものは何もない、私は実在ではなく起こっていること、即ち「マーヤ」だ

自由意志を持つ私とは各体の脳が産み出した、条件づけられている記憶物質の反応のことなのではないか



私とは誰か?

私とは記憶の反応であり思考である

条件づけられている記憶の反応が思考であり、それは起こっていることの一部である。



今日はこの様な思考を書いたが、これはあくまで個人的思索だ