脱皮




脱皮とは何のことだろうか

私達個人が輪廻の過程に於いて

霊的進化の道を歩む際に起こる「死と再生」のことである
(肉体の誕生と死亡はこの脱皮とは関係していない)

自分自身である現在のパーソナリティー、即ちサイコノエティック体が

再形成されることである、未知なる知覚の扉が開くことである
(霊眼や透視、千里眼のことではない)


私達とは即ち起こっている思考、感情と行為の結果そのものであるように思える

私達、現在のパーソナリティーとはこの起こっている思考と行為そのものなのだ


それ故に起こっている思考と行為の責任は私達にあるのではないか


私達がもし脱皮を遂げており、そして高次の身体を持っている永遠のパーソナリティーであり

内奥のソウルセルフエピグノーシス(普遍的魂)とつながり、感覚や知覚が自他の分離がない状態であるなら

責任はないと言えよう、

最早次元の異なる行為が(無為が)そこにあるからである

そこには個人の行為ではない、自由で全体性である行為がそこに在ることだろう


しかし私達である現在のパーソナリティーにおいては

未だアストラル体メンタル体の再形成が為されず、脱皮せず

高次ノエティック体となっていない限りに於いては

私達である現在のパーソナリティーとは起こっている行為と感情・思考の結果であり、

行為と感情・思考そのものが私を生み出すのではないか

従って私とは、その責任を負っている

行為と思考であるのだ



私達現在のパーソナリティーが

私である自分自身を非難や判断なく抱きしめ、その自分が自分自身に本当に耳を傾け

自分がその自分自身である時

おそらくそこには自分自身の再形成が開始されることだろう



このサイコノエティック体の再形成とは

自分自身の、自分自身による、自分自身への受容と観照によって為されていくのだとおもう


他ならぬ自分が自分を受容し、観照し、無条件の愛を自分自身へと注ぐとき、

それが将来の本物の受容と観照と普遍的な愛へと

変貌する可能性が有るのではないか


受容と観照と愛に関しては、それが本物か偽物か、可能か可能ではないかの論議は的を外れている

可能か可能ではないかと問うこと自体が自我である現在のパーソナリティーから発せられているからである


私達である現在のパーソナリティーが自分自身を受容し観照し無限の愛を注ぐとき

観照であり受容であり愛である永遠のパーソナリティーへと繋がる脱皮が

サイコノエティック体の再形成が始まるのだろう



そしてこの再形成し、自分から脱皮した高次ノエティック体が

永遠のパーソナリティーと繋がり


そして普遍的霊魂である真我・ソウルセルフエピグノーシスは言うのである

私は行為していない、私は思考ではないと


この言葉を「起こっている思考と行為の結果」である現在のパーソナリティーが言うならば

即ち嘘をついていることになるのである