私・自我の特徴
私・自我とは一体何のことだろう
私の未熟なレベルで分かる範囲のことを述べてみたい
自我の最大の特徴とは「私とは他人とは異なっている独自の実在だ」と思い
肉体と一体化しているもののことだ、肉体を自分だと思っているもののことだ
この自我とは、これは現在のパーソナリティー即ち、諸体の状態であり、自分自身のことである
しかし、この肉体と結合した現在のパーソナリティーとは決して自他における差異はないということ
この私自我とは私でもあなたでも同じということだ
このことは少し観察すれば分かることだが
哲学者の言うような「感覚(五感)や知覚・認識の中身は一人一人で違っている」のではなくて、実は全く同じだ
それは脳の構造も脳の中身も人類で皆同じであるからだけではなく
脳と結合した自我も同じ構造なのだ
人類の自我とは、個々別々なのではなくて地球で同じ同一の自我(私という観念=思考=マインド)であるからだ
肉体や記憶と同一化している自我は個別に見えても、その肉体と同一化している私という観念は同じものだ
世界中の人類の知覚とは実は全く同じで、全ての人は同じように甘いものは甘いと知覚しており、その知覚の中身は同じなのだ
全ての自我は自分は特別で、他人とは違っていると思っている
しかし全ての個人がそう思うのは
それは脳の構造が同じであり、そこに結合した肉体を自分だと思っている自我の構造も同じだからだ
感覚や知覚だけでなく意識・内面に於いても実は人類は同じであるのはサイコノエティック体の構造が同じだからだ
情欲は自分だけの秘密の感覚だと思っているが、それは人類で全く同じで、同じ同一の情欲なのである
悲しみの中身も、痛みも、喜びも、味覚も、視覚もその中身は、人類は皆同じように感じ、同じように実感している
肉体も諸体も同じ同一構造であり、肉体を自分だと思っている自我・現在のパーソナリティーも同じ構造である
この現在のパーソナリティーの発達レベルとは個体差があるので当然、自我の状態は異なっている
だが自我の成熟度は各個体で異なっていてもその現在のパーソナリティーの構造は同じだ
その背骨と中身は同じ私という観念=マインドである
私、自我とは私という観念であり、心であり、そのエレメンタルなのだ
それはきっと大きな海全体が地球のマインドで私達の自己・自我意識はその小さな波ということ
この肉体と同一化した「レベルの異なる現在のパーソナリティー」という自我の実体感覚のことだが、
この私・自我も、あなた・自我の実感も、実は地球上では、ひとつの意識なのではないか
この同じ私という自我意識、それは潜在意識において一つと言うことだろう
それは、この自我は全ての人において同じように統覚機能を通じて投射されているといわれている
他ならぬ根本無明とは魂の座といわれている松果体から投影されていると言うことであろうか
デカルトの「吾思う故に我在り」というのは、他ならぬ思考の源泉の私という観念は松果体に
あることを物語っている
この私自身である、競争心、嫉妬心、増上慢、恐怖、暴力は世界中の人類で全く同じものが投射されている
自我意識の中身とは私もあなたも同じなのだ、同じ心なのだ、投影されている結果なのだ
なのに、この私自我とは自分独自の私だけの自我・自己、私の心だと思っている、
だがそう思うのが自我・現在のパーソナリティーの特徴であり心の特徴なのだ
その自我とは私のものでもあなたのものでない、
この同じ同一の自我が分離した私であり、私自身であり、あなたなのである、私とあなたの自己意識なのである
苦しんでいるのは私やあなたではなく人類全体の心が苦しんでいるのだ・・と言えそうだ
だが
世界中で全く同一の私という自我は、私だけの感覚、私だけの苦しみ、私だけの嫉妬心だと固く実感している
私・自分という自我は世界人類の他の自我とは異なっていると思っている
この私という分離束縛感、競争心・暴力・無関心・増上慢・恐怖・閉塞感などは自分だけと思っている
・・・が、しかし、そう思うこと、それこそが同一の自我の特徴であり、私達である私自身の特徴なのではないか
私の自我なのではなく、あなたの自我なのでもない、この自我は地球で一つで同一の生きもの、それが私という観念だ
私、そしてあなたの区別なく同じであり、同じその自我がそのレベルは異なれども、それぞれの肉体の中で生きている
覚者達が言うのは、その自我の私とは決してオリジナリティーの私ではなくて、私を詐称している自我なのであって
分離できない且つオリジナルな本当の私なのではないということだ
私を詐称している、「私という観念」が全人類の共通の私であり、記憶として個人として反応しているというのである
そしてこの「私という観念・無明」とは個別的霊魂から投射されているといわれている
この私という観念・マーヤは個別的霊魂(永遠のパーソナリティー)から投射されている・・と言うことである
無明とは統覚機能を通じて投射されていると言うことである
現在の私達の意識とは、まさにこの私という観念そのものであり、中身は思考の記憶の反応といえるのではないか
それが自我であり、現在のパーソナリティーであり、記憶の反応・自我の反応なのではないか
世界の人類の全ての方々が自分と思い、自分自身と実感しているこの私とは、この世界共通の自我・心なのだ
それがマインドであり、あるがままを覆い尽く、あるがままを見る事はない
私達とは実は個別的霊魂から投射されている私という観念=自我=現在のパーソナリティーなのであろう
この自我の特徴とは、なろうとすること、至ろうとすることであり、恐怖であり、時間と空間の認識から、なり立っていて
自分が生きている、自分は行為している、自分が思考していると思っている
が、その現在のパーソナリティーの実感、それは間違っている
行為は起こっており、同時に行為している私も起こっているといわれている
思考は起きており、同時に思考している私も起こっていると言われている
そして同じように思考や行為を判断している私=自我・私という観念も起こっているといわれている
常に自他を区分し、自分のことを他者と異なる私自身として意識している私
・・・・極言すれば、私・自己意識とはこの生起している思考とその記憶の反応であるといえようか
私とは投影されている私という観念であろう
この観点は未熟な現在のパーソナリティーからの観点である