自己を受容する



多くの教えで受容の重要性が語られているが、私なりの「自己の受容」についての考えを述べてみたい

まず私・自己とは「自己を受容している又はしていない」にかかわらず


受容されている

私達は受容されている、

それゆえに生かされ、ここにいることが出来ている



脳が自分の所有ではないように、この個人も決して自分の所有ではなく、私とは私のものではない

この顔も、この身体も、この知覚も、この意識も私のものではない

記憶も欲望も意志も私のものではない、私のものと言っている私も、私のものではない

一人として同じ指紋がないように、一人として同じ顔がないように

この私という自己は全体が構成している一つの細胞なのではないか



私の脳だ、私の自分だと思っているこの私とは、ここに受け入れられ生かされている


では、私・自己・自我はその同じ私・自己・自我を受け入れる事は出来るのであろうか?

常に判断し、分類し、非難し、利益を追求している自己は、その私自己を受容することが出来るのであろうか

自己を知り、あるがままを知ることが、この自己と呼ばれている私に可能なのであろうか?

自己を受容しようとしているこの私とは誰なのか?

そもそも、この自己と呼ばれている私は、何故「自己を受容しよう」とするのか?その動機は何か?

その目的は何か?


実はこの自己を受容しようとする自己は受容され生かされているのではないか



私達が自己自身を受容している又はしていないに関わらず私達は受け入れられているのだ

呼吸をしているのがその証拠であり、意識があるのはその証拠である

私が生きているのではなくて、私を含め全てを生かしておられる「いのち」が生きている

私が生きているのではない、あなたが生きているのではない

私としてあなたとして生きておられるのだ



自己を受容する自己も、あるがままを受容しない自己も共に受容されており、生かされている

私達はこのまま許され、受容されている、あるがままの一部として


この自己・自我が受容されていることを久保栄治のように概念だけではなく

本当にありありと自覚したとき、

そしてこの生きているのは私ではないという事実を見ることが起こったとき、

多分、その見ることそのものが変革であり

その変革が私という自己を変貌させ

自己の受容ということが起こるのかもしれない