深遠なる言葉




Kの言葉は人類にとっては最高度の深遠なる言葉で在ろう


「見るものは見られるものである」の言葉は、不二一元の「汝はそれなり」と同じであり

「観察者は観察されるものである」もまた同じである

これらの言葉とは思考や記憶や私という心では理解不能、接近不能の言葉なのである


実際には分離していないのに、分離していると見ている思考・心・自己なくして見よと言っておられるのだ


またこの、Kの「思考なく見よ」「心なく見よ」「私なく見よ」とは最高度の瞑想の状態をも示している


”思考や心や私と同一化することなく「見よ」”とは絶対肯定でも在る

Kの事を否定道と言った者もいるが、それは違うのだ、Kは絶対肯定の道なのである

それは私達に対して”思考や心や私を超えている「眼」”で見なさい、在りなさいと言っているからである

それはとりもなおさず実際には私達とは「私」や「思考」や「心」ではなく分離していない眼・実在であることを証している



これはまた最高度の瞑想状態のことでもあろうか

私達に対して「私・自己と言っている思考や心」と同一化することなく

あるがままをあるがままに見よ、

思考や、私や、心なく見よ・・・・と言っておられるからだ


それは一見、完全否定のように見られるけれども、実は最高度の完全肯定なのである

Kの言葉は思考や心や私ではない「眼」「見」「実在」「無我」「ソウルセルフエピグノーシス」を大前提にしているからである


私や思考と同一化することなくあるがままをあるがままに見るということは

それは起こる事だ、

としか私には言えないが

この事に対して、Kを学ぶ学徒の中にはそれは不可能だ

「この思考なく見ることは私には不可能だ」と言っているものがいるけれども、

そう言っているのは

それは、まさにKによって見なさいと言われている眼ではなく、

思考のことを私だと思っている思考であってそれはKのいう「眼」、「見」ではない

その不可能であると言っている私とは本当の私ではないところの全てを分離して見ている自我なのだ



その自我である私とは思考であり、心であって神聖なるマーヤの贈り物でもある

それは

Kによって「思考なく見よ」「私なく見よ」と言われているところの分離していない未知なる私(I AM I)(無我)のことではない


「見ることは私には不可能だ」と言っているのはまさに、Kによって同一化するなと言われている思考であり、自我の私なのではないか