自由意志
私達は自分に自由意志があると思っているけれども、また自由意志で行為していると思っているけれど
私達にはほんとうに自由意志があるのだろうか?
他者を知覚している私が、その知覚する自己を意識している限り、その意識とは自由ではない、
何故なら、その意識とは自他の分離という「思考の私」であるからだ、それは意識ではなくて意識から生じている思考なのだ
自由意志の問題を語るとき、それは通常の次元ではない、更に高次の次元からの視点が必要となる
私達の認識している自由とは実は不自由を含んでおり、それは本当の自由ではない、
このような自由意志を意識している私がいる限り、
それは不自由の内にあって、不自由が私は自由だと叫んでいるのだと
どうして諸々の身体であるものが自由であり得ようか
真の自由とは不自由を含まず、またその自由においては
私という知覚主体、認識主体を含んでいない、
私が束縛であり、他を知覚する私こそ自由ではないものだ
自由とは主体と客体の分離を含んでいない意識の事だ
分離している私は思考であり、それは身体であり、自由ではない
同じように
私達の認識する正義とは不正義を含んでおり、正義は不正義の裏返しであって、それは同じもので
それは本当の正義ではない、これらの正義とは不正義となり、不正義は正義へと変わるからだ
そこに分離があり、他者を知覚する自己がいる限りはそれは正義ではなく、正義という不正義に他ならない
敵・味方も同じく、虚妄の概念であり
実際は敵は味方であり、味方は敵である、
この敵と味方とは常に変わる、そこには自他を利用する自己がいるからだ
敵味方の概念、それは自他の分離というマインドの二元性から派生している地球人類独特の考えであるからだ
善と悪も同じように、時と場所と立場によってそれは変わる、
悪の中に善を含み、善の中に悪を含んでいるからである
善悪を裁く者の中には本当の善はない、善悪を知覚するもの・・自我がいるからだ
本当の善は善悪を識別せず善悪を知覚していないのだ
本当の善には悪も善もない、善悪がないところ、そこに本当の善がある
行為がある限り、自由はなく自由意志もない
行為とは常に行為している主体を含んでおり、その主体を含まない行為=無為である時、
そこに人類には知られていない「本当の行為」があるといわれている
行為を知覚し認識している主体が有るところには、本当の行為=無為はまだ生まれていない
真我の人は行為していない、無為であるからだ
これと同じく私達の愛とは憎しみを含み、憎しみの中に愛を含んでいる、
これは本当の愛とはいえない
この他者を知覚している自己がいる限り、その愛とは愛ではなくて「愛憎」である
自己と他者の分離がないところ、そこには初めからの「本当の愛」があるに違いない
それでは自由意志とは何だろうか
私達が認識している自由意志とは実は自由意志ではなくて、自我・自己の欲望と願望のことであり、
欲望と願望とは条件づけられており、条件付けの結果であると言える
それは常に自己と言う他者から分離している思考からの欲望想念のことである
それは思考から派生しており、その欲望のことを私達は自由意志だと思い違えている、
それは脳によって条件づけられている思考観念にすぎず、自由ではなく自由意志でもない
私達は自由を知らない、
なぜなら私とは自由ではなく、記憶の反応、思考の、観念の反応であり、
この思考の二元性という、常に他者を自己とを分離している「私という観念」の意識であるからである、
私達の意識とは「私という観念」の思考なのだ
この私という観念は自由を知らず、従って自由意志を知らない
私達が自他の分離を知覚し認識しているかぎりは、その私とは自我である
その自我の自由意志とは、自由意志ではない、自我(エゴ)がそのものが錯誤の観念であるからだ
自由とは知覚する主体と客体の分離が消滅している意識の事であり、
それはこの思考がある限り顕現していない、
思考・・それは大いなるマーヤなのではないか
自由も自由意志も、他者を自己と分離している自我、私という観念が消滅し、本来の意識が顕わになったとき
そこに自ずとあるものであろう
私達が自由意志と称する自由意志とは「条件づけられている私という観念」の持つ欲望に過ぎないものであり
それは欲望であり、決して自由でもなく、自由意志でもない、条件付けの結果なのだから
その自由意志とはコントロールされている
これらの自由意志という虚妄は深く深く現象界を覆い
私達が三界という現象界の意識である限りは、この偽りの自由と自由意志の中にあって
偽物の自由意志を本物の自由意志と取り違えてしまうことだろう
それは私達がこの私とは実は虚妄の私であることに気がつかず
この分離している私のことを私だと思い違えているのとおなじだ
現在のパーソナリティーのことを私だと知覚しているのは現在のパーソナリティーであり
その現在のパーソナリティーの私が、この自分は真の私ではないと思える日が来たとき
そこに自由が在るに違いない
脱皮が起こったのだ
自他を分離する自己がないとき、そこに自由があり、Kのいう「あるがままを見ること」があるのではないか