意識と諸体との関係



日中の意識  =肉体及び諸体の脳の状態(日中の意識は夢見と熟睡の混合状態、諸体の状態のことである)


夢見の意識  = アストラル・メンタル体(サイコノエティック体)・・・私の現状とはジャガイモ状態で再形成されていない
                               (アストラル体が形成されていないので超感覚機能が働いていない)


熟睡の意識  = コーザル体(アトミック体)  ・・・・私も含め通常はこの意識は覚醒していない(下位三体が再形成されないと機能しない)
                                (前世の記憶などはこのコーザル体にあるといわれている)

(ここから先の項目は賢者達の説明による私達には未顕現の意識)

観照の意識  = 永遠のパーソナリティーといわれている熟睡と夢見と覚醒を観照している意識

            (鏡と言われている意識だが三体が再形成・又は透明整合していないので、この意識は通常では顕現されていない)


真我の意識  = 魂(非分離・普遍)の意識、ソウルセルフエピグノーシスといわれている真我の意識(覚者達の意識)




以上のことを踏まえて以下の行為の問題を自分なりに考察してみた

肉体は私達の自由意志で動いており、この自分が動かし行為しているように思えるが、果たしてそうなのだろうか?

そもそも体を動かしているというこの私とは誰なのであろうか?この既知なる私とはどの私のことであろうか?

脳が正常に機能しているので行為が為されており、病気などで脳に異常があれば私達が動かそうとしても動かせない

この動かそうとしている私とは、自分が自由意志を持ち、知覚し、認識していると思っている「マインド」が生み出した

私、それは起こった思考や記憶の記憶なのではないか

感覚や知覚や認識や記憶が脳に依拠しているように、行為も脳に依拠している、行為は脳が生み出しているように

思われる

行為と意志が一致しているので私達は自分が行為していると実感しているが、その意志や選択そのものが

「自己意識」同様に行為と関連づけられており、脳に引き起こされているとしたらどうだろうか

脳で受信されている意志や選択は、同じように脳による行為に関連づけられており、共にそれらは

脳と同様に根源によって引き起こされ、起こっていることなのではないか


ここで忘れてはならないのは脳とは決して私のものではなく、根源のものであるということだ

私という観念が「脳は私のものだ」「私は他人とは異なる独立している私」だと思っているだけなのではないか

脳は決して私のものでもあなたのものでもない




行為しているのはDNAによってプログラムされている神聖なる生きている肉体(エーテル複体など)であり

行為とは私の行為もあなたの行為も全てが神聖なる起こっていることなのではないか

そして

その行為を自分が為していると実感して、行為を判断し、行為に対して反応しているのは、誰なのか

それは、「肉体を通じて行為している源泉」が同じく同じように使用しているアストラル・メンタル体、自我であり、

その同じ源泉が肉体を行為させ、

そして

肉体に入って「自分が行為している」と実感するアストラル・メンタル体、自我その反応をも産み出しているのではないか

と推測している


アストラル・メンタル体とは思考体・感情体のことでありエレブナ風に言えばサイコノエティック体でもある

それは即ちこの記憶(思考が思考する私であるので)から成り立っている自己意識・自我のことである


これらの諸身体とは鏡という観照を覆っている思考感情即ち自我のことであり現在のパーソナリティーといわれている

現在意識の事である


このサイコノエティック体という思考感情が自己自我を形成して鏡である「未顕現の本来の意識」を覆っているのではないか

このサイコノエティック体である現在意識が浄化され透明化することによって本来の鏡である観照者という意識である

永遠のパーソナリティー(個別的霊魂=一即多)の意識が顕現されると言われている

それは熟睡をも観照している「思考なく見ている目」でもあることだろう

私達においてはその目である鏡を現在意識が透明化することなく覆っているのである








ここのところは非常に複雑なので

ゆっくりと思考してみたい