霊的解剖学の試み




包括する霊的な解剖学が必要とされるが

現時点での人類はそれを肉体脳に集約させ肉体脳が全てを行っているのだと思っている

意識とは肉体脳の働きだと錯覚している


しかし脳とは諸体と密接に絡んだ状態で受信器・送信器として働き

その情報を思考体、感情体、さらに統覚機能体に伝えているのであり、脳が意識を生み出しているのではない

それは丁度ネットに繋がっているPCの様なものなのではないか


具体的には

思考・感情・想念は受信器である脳を経由して思考・感情体がそれを受信し、思考。感情体がそれを統覚機能に伝え

統覚機能は今度はその思考に対して反応して、思考・感情体から脳へと送られ脳から発信されている

ということなのではないか

(その脳から発信されたものが想念形態であり、エレメンタルなのであろう)


しかし現時点ではその統覚機能が全く無明という自我・私という観念と同一化してしまっているので

本来の統覚機能ではない無明(自我)としての反応が起こっている・・ということであるように思われる


私達の統覚機能からは自我という無知が発せられており

その根本無明も根源から来ていると教えられている

これに関して一部の教えでは根本無明が統覚機能という個別的霊魂を覆っているという説もあるが

それでは、その個別的霊魂を覆っている無知・無明とはどこから来たのであろうかといえば

賢者達はそれは同じ根源から来た「非実在である」とも言っている





ここで言う統覚機能とは霊魂の一部である個別的霊魂の機能のことであり、

意識の基底として、思考や想念や行為を映し出しているスクリーン(鏡)の機能のことである

エレブナで言う所の永遠のパーソナリティーのことであろうかと思われる

(この永遠のパーソナリティーが普遍的霊魂の一部として現象界に下降し脳と接触しているのだと言われている)


この永遠のパーソナリティーとは現在は、意識化されていない状態であり、

脳においては視床下部,若しくは松果体に接続されているのではないかと想像している

また、この個別的霊魂又は永遠のパーソナリティは、無知若しくは私という観念によって塞がれ顕現していないので


熟睡という・・・「マインドが働いていない状態」に於いて、この「思考ではない意識」は目覚めておらず、

自らを意識できない状態になっている(これが現在のパーソナリティーの状態でもある)

私達は「思考ではない(私という分離を含まない)意識」が覚醒しておらず熟睡を観照することが出来ないのである

(この気づきと言われている意識が覚醒しているならば、思考を観照するということが実現するのだろう)

現在のパーソナリティーの状態がそのまま即ち現在意識の状態であるので

諸体である現在のパーソナリティーの再形成が求められている訳である



私達である現在のパーソナリティーは「意識の座」を意識することもなく

「無知である私という観念」によって覆われた思考感情、即ち自我の働きしか起こっていないのではないか

というのもこの意識の座という鏡が「私という観念・無知」に塞がれているから・・・と思われる



この視床下部若しくは松果体に接続している個別的霊魂の意識は真の私と繋がっており

通常、私達はこの意識の座を意識することもないけれども、

この意識の座が存在しているので熟睡、夢見、覚醒の三状態を経験することが出来ていると思う


というのも、この意識化されていないけれども、この意識の座が存在していることで、

自己意識(セルフエピグノーシス)の継続(輪廻)が実際問題として成り立っているわけであるからである



ここで言う自己意識の継続とは輪廻を続けている統覚機能を含む思考体と感情体から成り立つ

現在のパーソナリティーのことを指している


現在の大脳生理学とは肉体の脳だけを対象にして研究しており、非常に狭い範囲の学問のことである

脳に絡んで存在して機能しているサイキック体(感情)、ノエティック体(思考)そのほかの諸体を

全く度外視して進んでいるのだけれども、

実際には私達人類に於いてはそれらの諸体が肉体の脳と絡んでいるので日常生活も成り立っている


聖者や覚者達はこのレベルを遙かに超えて、松果体や視床下部に繋がる個別的霊魂(永遠のパーソナリティー)の更なる内奥の

霊魂そのもの即ち個別的ではない霊そのものとして、私達が使っている通常の言語で話しかけられている

諸体が完全に再形成されているのである


そして「目覚めよ」、「思考なく見なさい」、「在りなさい」と語りかけておられる


私達である個別的霊魂が全体なる霊魂を構成しているのであり、決して分離していない

にもかかわらず、朝、起床して他者を自己とは分離した「私」として認識している「この私」とは誰だろうか?

それはこの霊魂ではなく

私という観念に他ならないといえるのではないか