見ることは不可能なのか?
思考なく、心なく、私なく見ることは不可能ではない・・・とKもラマナ・マハリシも覚者達は言う
ここに喩え僅かではあっても現在の人類にとっての可能性が有るのだと思われる
私の友人で”Kの言う「心・自己なくして見るは不可能だ」”と言ったものがいるが
その言葉は心・自己・私から出てきているのであって・・・心に絡みこまれている状態から心が発言したのだ
それと同じように
高次の意識に到達しようとして
思考停止しようとする動きも思考から生じているといえよう
思考が思考を停止しようとしている・・・それこそ自己矛盾である
それ故に、その思考が同じように「思考なく見るのは不可能だ」というのも当然と言える
思考がより高次の意識の獲得を目論んでいるのであろう
そのようにして、同じようにその思考が「~なろう」「~至ろう」「~実現しよう」として
思考・心・自己の働きが加速していく
Kやラマナたちにおいて「思考なく、心なく、私・自己なく観照することは可能だ」と言ったのは
私達においての可能性としては熟睡時や夢見時ではなくて覚醒時に於いてのみ可能であるということだろう
ここに瞑想の重要性があり、可能性がある
目標を持ったり、獲得しようとしたり、目的のために何かを為すことがマインド心・思考・私の特徴であり
心は常に「神の如くになろう」としている、到達しようとしている
心の動きに巻き込まれず、心と同一化したりせず、心から逃避せず
心の動きに気がつき
ただただ静かに座り、ラマナの「ただ在る」「ただ見る」に身を任せることは不可能ではない
との「内奥への信頼」が必要なのではないか