開花
今朝は開花=フラワリングについて考えてみた
フラワリングとは花が開花するようにあるがままが開花していくことだ
全ての花はいずれは開花し、そしてその花の役目は結実することになるだろう
大きな樹に咲いた美しい花は自然の理に従って花開き、そして枯れて落花していくことだろう
ここで言う大きな樹とは私達人類の意識の事であり
大きな樹の一部である花とは私達・自我のことである
私達は大きな樹に咲いている無限にある花のうちの一輪の花であり
私・自我とはこの大きな樹の一部である花=現在意識の私の事である
ではその花の特徴とは何か
その特徴とはその花は樹と分離していると思っていることであろう
空中花の様に、自分は分離していて、樹や大地と繋がっていないと思っていることなのだ
隣の花とは同じ樹に咲いている同じ花であるのに、「あなたは私と異なっている」と思うことだろう
花はいつまでも咲き続けていられると思っていることだろう
これらの想いが、この花である私・自我の特徴だと思われる
では更に、この私・自我の特徴とは具体的には何か
一つ、私・自我とは自己意識であり、自己自身を主体と客体に分割し、自己を対象化して,分離している自己を意識
している
一つ、私・自我は自己自身のことを肉体などと同一化して、自分を特定の肉体だと思っており、同じ花である他者をも
私・自我とは異なっている肉体であると思っており、私は他者とは異なっている自己独自の意識であると思ってい
る、そうであるので私の肉体、私の才能、私の脳、私の成果、私の自分、私の輪廻などと思っているのだ
一つ、私・自我はあるがままを決して受容せず、あるがままを否定し、あるがままから逃避し、あるがままであること
ができない、あるがままの自己を見ることが出来ないのは、私・自我とは観念なので「見る目」がそもそもないからだ
またあるがままを非難して、あるがままから逃げようとする。私・自我とは私・自我から逃げようとするのである
一つ、私・自我は常に私・自我自身を非難し、受け入れず、良くなろう、自己改善しようとして努力し存続しようとする
一つ、私・自我は自らを未知なる私でとあると詐称することで、「私は自我ではない、私は霊魂、私は観照しているなど
と常に自己欺瞞している
一つ、私・自我は自己自身であることが出来ず、つねに未知なる真我や魂などという観念(真我や魂は観念ではな
い)と自己同一化して、あるがままの自己の姿を見ようとせず、決して自己を受け入れない、
一つ、私・自我は自己を愛せない、受け入れない、従って同じ自己である他者を愛せない、私・自我とは愛ではない
私という観念であるからである
一つ、私・自我は自らである私・自我を対象化することにより、自らは主体となり、自己を自己観察の客体対象とし、自
らを分割し、「私は自分を見ている」「私は自己を観察する主体である」など自らを偽り、自己を生き延びさせよう
とする
一つ、自己観察していると信じている私とは、観察されている私・自我であり、それは自己観察ではない、自己を見てい
ると思っているだけである、実際には私・自我は見ていない、目がないので肉体及び諸体の視覚システムの情報を
受けとって「自分が見ている」と思っているのだ
一つ、私・自我は自己イメージという記憶の中でぐるぐる回っているだけであり、あるがままを見ることは出来ない
脳の知覚情報と自己同一化して「私は見ている」と錯覚しているだけだ、私・自我には目がないのだ
一つ、私・自我は私・自我を私自身だと思っており、この私・自我という私とは自己についての他者の持つイメージであ
る事に気がつかない
一つ、私・自我は私・自我とは神が演技している媒体であることを理解せず、自分は神と繋がっていることを理解で
きない
ではこの私・自我の開花とは何であろうか?
それは自我が成長して花開き脱落していく事ではないか
この開花、脱落とは「自己の受容」「あるがままである」ことが起こる事だろう
そしてそれは恩寵なのだ
季節が変わり、又季節が訪れ花が開き、そして散るように、全ては恩寵であり、恩寵の中に全てがあるといえよう
「すべてが恩寵とはいえない、それは特別なことで、その特別なことが私に起こるのだ」と思う事こそが私・自我の
特徴なのだが、実際には全てが恩寵であり、開花も恩寵なのである
恩寵そして開花、それは推測するに、
「自分自身であること」
「あるがままの自己を見ること」
「自分自身を受け入れること」
なのではないか
あるがままであり、あるがままであること、あるがままを見ること、これが恩寵でなくてなんであろうか
私・自我が私・自我自身であり、どこにもいかない、行く必要もなく、行くこともない、あるがままはあるがままであり、
そのあるがままがあるがままにある、そのあるがままを受容するとき
そのとき、あるがままの開花が起こり、花はその役目を全うするのではないか
憎悪が、怨恨が、欲望が、悲しみが、増上慢が、競争心が、恐怖が、不安が、絶望が、判断が、非難が、同一化が
そして私・自我自身が
それらの観察されるものが、観察する私自身であることが露顕されたとき
それは花開くのではないか
「あるがままをあるがままに見る」という恩寵が起こったのだ
私・自我が私・自我であるとき、どこにも行かないとき
開花がおこるのではないか