私とは私のものではない
「私とは私のものではない」というと,何かその言葉の表現に違和感を憶えるが
その違和感を憶えている私こそ、自分は肉体だと思っている私であり
お馴染みの分離した私。「鏡」に貼り付いた思考器官、この私という自己意識だと思う
この現在の私という「私が知覚主体、私が認識主体、私が行為主体」だと思っている私とは果たして誰だろうか?
このお馴染みの「私という自己」とは誰なのか?
私達は通常、私が欲望している、私が行為している、私が高慢なのだと思っていて
欲望と行為と高慢などという「鏡」にやってくる思考・行為と自己を同一化している
しかし、それば自ずと分かるように
「鏡」がこの肉体に入ったために
この欲望が、この自己関心が、この行為が、そしてこの自己意識が必然的に
鏡に映し出され、私という主体意識が「鏡」に映し出されているのではないだろうか
この果たしてこの私という自己意識は何なのであろうか?
この私という自己意識であり主体意識・私とは結果として起こっているものなのではないか?
あらゆる生き物の自己意識を見ればそれは自ずと明瞭であるようにおもえる
自己意識とは脳の条件付けの結果(脳が不十分にしか機能しないために生じている結果)なのではないか?
私の脳だ、私の右脳だ、私の左脳だと言っているこの私こそ、脳が生み出している私・記憶なのではないか?
私の脳ではなくて、脳の私なのではないか?
実際には私・自己意識とは脳の活動の結果であり、脳の働きによってこの私が生み出されているのではないか?
だから脳とは私のものではないように、私も、脳と同様に「鏡」に起こっているものであるのではないか
「私とは私ではないものなのだ」、思考器官の結果生じている意識なのだ
分離した自己意識を持つ私とは脳が生み出していると思われる
行為している私、競争する私とは脳の結果でしかないのであると推測される
夢の中の私も、覚醒中の私も、それは同じ私だが、この自己意識とは脳に起こっている現象であり
決して「鏡」それ自体ではない
自己意識とは起こっていることなのではないか・・・脳によって、脳の記憶によって・・・
平たく言うと、自己意識とは指の指紋や心臓の働きや行為のように全体性の一部であり起こっていることなのだと思う
条件づけられている脳のプログラムにしたがって私という自己意識や感情や行為や欲望が脳に起こっているのである
そして
その脳に入った「鏡」が条件づけにしたがっている脳に起こっていることと自己同一化しているのだ
決して私が意識しているのでも、私が行為しているのでも、私が生きているのでも、私が考えているのでもない
私・自己意識すらも実際には
肉体や脳や才能や行為と同じように、脳に起こっていることだ
自己という主体意識も脳の条件付けに因って生じている結果だと思われる
脳とは受信装置であり、心(自己という虚構)を受けとるシステムなのではないか
この分離している私・自己自身という自己意識とは脳(諸体の脳を含む)の条件付けの結果として
生じている限定されている自己意識なのではないか
私達人類共通の「一番になりたい」「幸せになりたい」「私の願い」などとは、脳の条件付けの結果であり
決して「鏡」本来の意識ではないと推測している
私・自己とは生じている意識なのだ、それらは物質であり、如何に精妙であっても物質である以上は質料であり
観測可能なものだ、計測可能なのである、それが人格・個人であり、ワサナと呼ばれるものだろう
脳の条件付けに従って、欲望や行為や意識が起こっており、その意識の中身こそ私という自己意識だ
犬や猫には犬や猫の条件付けがあり、その犬や猫の自己意識と欲望と行為は生じている
蝶々には蝶々の条件付けがあり、蝶々の行為とその蝶々独自の意識が生じている
全く同じように人間も
個別の指紋で分かるように個体・個人は偉大な芸術家(完璧な根源)による作品である
世界でたった一つの素晴らしい芸術作品なのではないか
人間だけが私と言うこの自己意識を持っているのではない、それはその生き物の目を視れば分かるだろう
その芸術作品が「行為」であり、「私・自己意識」であり、自分が行為していると思っている「私・心」なのではないか
私達人類の個々人は偉大な芸術家(創造主)によるオリジナルな芸術作品なのである
この芸術作品(ロボット)が脳の条件付けに従って生起している私であり、自己意識であると思う
だが「鏡」はそれとは異なる。それは「鏡」に去来しているのだ
そしてその「鏡」に映っている自己意識の私がこう言うのである
「この体は私のものだ」「私は私だ」「私が思っているのだ」「私が欲している」「私は神のようにならなければならない」と
そのその様に思っている「私」こそが、脳の条件付けの結果なのに、「私の脳だ」「脳は私のものだ」「私の行為だ」
「私は自分を変えなければ」「私は脳を変えなければ」「私は行為している」などと言う
そのようにすべての人類は思っている、
これこそ脳の条件付けに因る結果の意識に他ならない
だが、それは「鏡」の意識ではない
この条件づけられている脳の結果である自己意識の最大の特徴は
「~なる」「~する」「~至ること」「~理念理想を持つこと」「他を知覚し、認識すること」「他と分離している」などである
そして、この条件づけられている意識は私・自己であり、この中身は恐怖であり、暴力であるものなのだ
この人類の意識とは結果であり、全く自由ではなく思考に過ぎないのに、自分は意識を所有している
「私は意識だ」などと思っている、
自分たちは条件付けの結果であることを自覚・認識せず、私は自由で有り、意志は私の自由意志だなどと
現実とは正反対のことを言うのである
しかも誰もが疑がっていないのが不思議だ・・・・・
そしてこの自己意識であるところの記憶であり、且つ過去であり、条件付けの結果である私は
「私は私だ」、「私が思っている」、「私が欲望している」、「私が行為している」
「私は嫉妬している」「私は傲慢だ」「私は暴力だ謙虚にならなくては」
「私は競争心と恐怖心を持ってはいけないのだ」などとと
その起こっている心を客体化し、対象と見るのである
実際はその起こっている心こそがこの私・心であるのに・・・
実際にはこの欲望と、競争心と恐怖こそが私であるのではないか
万人に共通しているこの自己意識こそが脳の結果であり、
その記憶が「自分が行為している」「自分が私である」と錯覚しているが
それは本当は蜃気楼なのではないか、私とは虚偽であり実在していないものなのだ
この起こっている結果でしかないものがかくの如くに言うのだ、
「この意識とは私の意識だ」、「私は意識だ」と、しかしそれは脳の条件付けの結果でしかないものだ
そしてそれらはこの意識の座である「鏡」に生起している
そして恩寵とは
静寂であり、沈黙であり、思考・私の停止なのであろう
思考が停止するという恩寵が起こるとき
霧が晴れるように
太陽の光を顕すことが可能な本来透明な「鏡」が姿を現すのだろう