意識の座
意識の座についての考察をしてみた
この意識の座とは、神道では「鏡」で象徴され、賢者達によっては壺の中の水、コップの水
あるいは、湖の表面、若しくはスクリーンなどとも表現され
ここに諸々の脳に起こる思考や感情や記憶や欲望が来ては去って行くその座のことである
この意識の座(個別的霊魂)というものが誕生時に初めの息と同時に頭頂から肉体に入って脳と合体したのである
(その母胎の胎児にはこの意識の座を迎えるためにカルマが諸体と運命を既に決定しワサナが入っている)
しかし、肉体に入った
この意識の座という鏡、壺の水、若しくはスクリーンは「私という観念」によって
深く覆われ、汚染され、目覚めていないでいる、眠ったまま生命と共に肉体に入ったのだ。
”私という観念の「私は肉体だ」と思うその観念”と同一化したのだ
この意識の座のことを「個別的霊魂」または統覚機能という言い方も出来よう
また真我という時空間を越えた無限空間にある「現象界という球体」に開いた無限の窓とも言えよう
呼称はいろいろあっても、諸々の自我をも含めて「私」が生起する意識の座であることは間違いない
この窓の内側が「私という」現象界であり、窓の外は無限の空間即ち真我である
この意識の座があるので悟りが起こることが出来るし、生命が在る。
この鏡、意識の座(内奥は無限と繋がっている)、若しくは個別的霊魂の状態とは、
意識面から考察すれば熟睡での意識状態ことであり、人類の現況では熟睡中は目覚めていない
日中の覚醒意識と夢見の意識という意識は「私という観念の意識」であり
鏡それ自体が「私という観念である意識」に覆われているのが人類の通常の状態のことである
この「意識の座という個別的霊魂の状態」とは熟睡に於ける意識状態のことであり
この個別的霊魂が目覚めているならば、熟睡中も観照状態にあるといえよう
即ち「私という観念」を観照していることであろう
観照しているので「私という観念」からの解放・自由があることだろう
このとき
この意識の座、湖面の意識は深く澄み渡り、鏡の表面即ち心は私という観念によって
覆われていないと言うことになる、本来の心の状態を取り戻したのだ
内奥にある太陽という真我の光を映し出しているのだ
この鏡、スクリーン、コップの水という水で表現される統覚機能(心)が透明になったとき
そこに、始めて初めから輝いていた太陽を映し出すことが出来る・・と言うことであろう
けれども太陽という真我にとっては、この個別的霊魂という鏡は
この真我を映し出す媒体ではあっても、それは真我そのものではない
この純粋になった心も、真我を映し出すことが出来るほど透明・純粋になった
のではあるがそれは真我の媒体なのだ
ラーマクリシュナは
この関係のことを「神は自我を使って演技されている」・・と表現されている
ここでいわれている自我とは個別的霊魂のことであり、統覚機能のことである
現在のこの私・人類の「意識の座の状態」は深く私という観念によって覆われ眠ったままだ
個別的霊魂の意識は目覚めておらず、私という観念によって混濁している。
自分が行為している、自分が思考していると思っている思考者・行為者である「私という観念」
と同一化しているのだと言われている
個別的霊魂は人格や個人という「自分が行為していると思っている自我」を私だと思っているのだと
弘法大師が言われているように
「生の始めに暗く、死の終わりにも暗く、三界輪廻を重ねても目覚めることがない」
といわれるほどに深く眠り込んでいるのが私達・個別的霊魂なのだ
この個別的霊魂という意識の座が観照しようとすることで
透明になり純粋になって、本来の鏡となったとき
熟睡時に、若しくは夢を見ているときに、この熟睡や夢を観照する意識が出現することだろう、
それが意識の座が透明になってきた証であるということであろうか
そしてその観照は覚醒時にも決して失われることなく続いていることだろう
観照というそのことが太陽の働きだからだ
それこそ鏡の状態、意識の座の状態が本来の機能を取り戻したときではないだろうか
真我という太陽を映し出すことが可能になったのだ
内奥の意識が輝き始めたのだということなのであろうか
行為も思考も自我も根源のものなのだということだと