私くん
私達は自分のことを或る特定の名前と身体を持った私だけだと思っているが
実はそれだけではないことだろう
私達が私と言うとき
その私という自己感覚の基底には全人類で共通で同一の「私くん」がいるという
私達が私と言うとき、特定の人格や個人の私だけではなくて人類で単一共通の「私くん」のことも
含み指しているのだ
私達は個人の部分と「地球人類全体としての私くん」と
そしてさらに未知なる全体性の私で構成されているのではないか
通常の日常生活では
自分のことを、私だと思っているのは脳の記憶であり、それは個人、人格のことだ
それは肉体を離れた死後も働いているワサナとしての私だ
この個人や人格とは脳に起こっている感情や欲望や思考そして行為の記憶のことであり
この日常の私とは、脳の記憶の「反応としての私」のことを指している
しかし個人や人格のその基底には
人類で共通のベースとして「私くん」がいると
だから個々人の人格や個人の「私」とは、全人類共通の「私くん」を構成している一部なのであろう
私達が「私」と言うとき
その私とは個人や人格だけでは無くて
この人格や個人のベースである人類共通の「私くん」をも含んでいるのであると
個々の人類で同一のこの「私くん」とは、分離していると思い込んでいる意識であり
人種や宗教の違いや才能の有無や、敵味方を越えてひとつの私意識であり
その私が「地球で単一・且つ共通の私」即ち「私くん」だ
特定の名前がついている私達とは実は脳が生み出している人格・個人の私であり
その私は起こっている行為や思考が生み出した記憶の反応でしかない私なのに
この記憶の私は特定の身体に起こっている行為や才能や知覚や記憶を
自分が行為しているのだ、自分が思考しているのだ、自分の記憶だと実感している
この記憶の反応のことを人格や個人というのであり
その個人が自分の身体だ、自分の起こしている行為だ、自分の知覚だ、自分の記憶だと
信じているわけだ
これらの個人とは「○○○○」と親に付けて頂いた名前の主体だと自分のことを思っているが
決してそうではない
実は、その自己意識の主体とは複層してあり
一つは現在意識に昇らない数多くの過去世の記憶の私・ワサナであり
一つは現在意識の私、今世での行為や思考や感情の記憶としての個人・人格であり
一つは肉体と共に、肉体の系譜に従って形成されている複層の精妙なる身体の私であり
これらは輪廻の度にカルマに従って引き寄せられている身体でもある
もう一つはその集合意識の私、すなわち「私くん」という地球規模の意識体である私だ
(未知なる全体性の私の事はこの現在の記憶の私にとっては未知であるのでここでは触れられない)
この「私くん」とは人類で共通のひとつの私であり、
全人類の全ての人格・個人の記憶の集合体でもあるのではないか
しかし、この私くん、とは現在意識によっては捉えられない
私くんとは全体性であるのに個別的霊魂だと
思い込ませている「私という観念」と霊魂の混合状態のことであるのではないか
この私くんは「私という観念」によって深く汚染され混濁しており、
本来は無垢透明な鏡、スクリーン、個別的霊魂などと呼称されているが、
個人や人格には意識化されていない「意識の座」のことである
霊魂のことである
本来は根源の細胞の一つとして全体であるのに自分を個別的な霊魂だと思い込み
丁度鏡が真っ黒な墨で覆われているように私という観念で覆われており
死ぬことによっても、生まれることによっても私、私と思い続け
幾多の輪廻を重ねていてもその墨は晴れることが無い
その本来は個別的では無い「鏡としての霊魂の意識」は生死を通じても目覚めることがない
この「私くん」は
現況では私という観念に覆われているために、
(この鏡は本来は太陽(真我)を映し出すのに)
目覚めていないのである
深くその覆っている私という観念と一体化している私くん
その「私くんという鏡」を覆っている「私という観念」とは
私・私のもの・私は・・・という分離している意識であり、その意識の中身は恐怖と、暴力であり
利己的で、悲しみと、苦しみ、優越感と劣等感、至ろう、なろうとする欲望を持っている
そして、未知である神になろうとしている、悟ろうとしている
すべてを分離して見て、すべてが主体と客体に分割して見ている
自と他は異なって分離しているのだと見ている
そして時間と空間という認識形式をもつ意識体である
夢の中では記憶の印象として働き、
目が覚めたときは日常の覚醒意識であり
熟睡時にはその私という観念は働いていない
が
しかし、脳の条件付けに因って現在意識とは繋がっていない
即ち
目覚めていない、意識化していない
と思われる