私とはなにか




私は誰なのか?私は誰かと尋ねている私とは誰か?

それは”自と他は分離していると実感している私”であり、自分を肉体だと思い、思考を自分が考えている、行為を自分が行為していると

実感する”継続している記憶”のことである。

思考と感情と行為のことを、自分が思考している、自分の心だ、自分が考えている、自分が行為していると思っている記憶の私である。

Kや覚者の云われるように行為が行為者を生み出し、思考が思考者を生みだしているのだとすると

この考えている私は考えが生み出した私、行為している私は、起こっている行為が生みだした私だと言うことである。


従って

私とはこの行為であり思考によって出現している「虚構想念」そのものだと言うことになる。

私が行為しているのでも、私が思考しているのでもなく、起こっている行為が私を生み、起こっている思考が私を生んでいる。

ということを、この肉体の行為や頭脳の思考、自意識を生み出すのが、最新の科学をもってしても如何に大変かをみれば分かるであろう。


この生み出された諸体とのシステムから起こった行為と思考が「私が行為している」「私が思考している」という私を生みだしたのだ。

そして今度はその生み出された私が

逆に私の人生、私の達成、私の不幸、私の失敗や成功、私の喜び、私の悲しみ・・・・と言うわけである。

そしてこの記憶システムは完璧に継続していく・・・・・

私・個人という錯覚の記憶は肉体の生死を超えて継続していく・・・・



いまのところ私は誰かという、この根源的な問いには、思考からの論理的な回答では「私は起こっている思考と行為の

引き起こしている虚偽の記憶であり、結果であり、その継続である」と論理的に結論するしかない




ラマナ・マハリシの云うように

行為も思考もそしてそれが生み出した分離した私とは、根源によって投影されているスクリーン上の映像なのだと言うことになる

わたしは投影されている映像の一部なのだ。

結論として私とは源泉による映像の一部なのだ、根源が起こしている事の一部であり、源泉自体の演技そのものなのだ。


ラマナ・マハリシ達はこの事を「意識」として直覚で観ているのに対して

私達は単に思考の推測で頭だけで言っているのに過ぎない。

即ち私達は理論であり、考えであり、信仰であるに過ぎないのに、賢者達は事実を事実として述べているのである。

この差は無限大である。



私達は考えであるに対して、覚者達は意見や考えではなくて、実相を実相として真実を意識から語っているのである