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外部と空間




今日は最高度の高次の事柄を考えてみたい


それは内部にあると言われている接点のことである。

私達の肉体を始めとする諸身体と意識を生起させ、外部を投影している内部の極小の一点とは、最大であり宇宙であると云われている。

極少は極大である。




もし、そこと、この意識が繋がったなら、内部は即ち外部となるとなることだろうし、私は世界で有る、若しくは私は宇宙であるとなる。

神(真我)はこの内部の極小にある。




すべては分離しておらず、今は過去現在未来であることだろうし、此処は全宇宙であり、全次元であることだろう。

その私とは自他に分離していない「仏陀」の意識であり、未知なる私・神であるからであり、それは全くもってこの自己的意識ではない。

私達の肉体以外の諸身体ですら時空間にある程度広がり、肉体ほど制約を受けていないということからして

諸身体を生み出し、統覚機能と知覚と認識を生じさせている、この内部の極小の一点から外部と時空間が生み出されている

と考えるのが正当なのではないか。




此処で云う内部とは脳が生み出している意識ではなく、その脳の意識を生み出し、脳を維持し機能させている意識のこと、

私達にとっては全くの未知なる意識のことである。


私と他人という自他の分離の全くない意識の更に内部という意味である。

覚者はこの魂の内奥と繋がったのだ。



とりあえず、此処では内部と外部を分けている「私は肉体である」という常識からではなく、異なった観点から思考してみたい。



聖者達が指し示している、内部の未知なる私からすれば

その未知なる私とは「他者から分離しておらず」大きさは意味をなさなくなり、意識は宇宙そのものとなり

私の中に宇宙はある・・となる。私の中に全宇宙はあるとなる。

時間や空間は共通する脳が生み出しているのであって、脳を生み出している意識には時間空間は意味をなさないだろう。


それ故に内部に仏陀がおり、キリストがおり、神がいるのだと言われているのだろう。


そしてその観点からすれば、覚者の言明である「私は世界である」、若しくは「宇宙は私である」は分からない事ではない。

そして内部は外部である・・・・となる・・・但しこれは思考やマインド、宗教や信念や信仰でもって言う言葉ではない。

このレベルに全く達していない私が言うことではないが理論的にはそう思えるのだ。


この観点は不二一元の覚者達の体験に基づく真我という状態であり

キリストの「あなたの中に神の国はある」、仏陀の「一切衆生悉有仏性」だと言明出来る観点からである。

キリストの汝の敵を愛せよ、若しくは上着を取られたら下着をも差し出せ・・・である。

それは勿論この私達のレベルの観点ではない。私達が言える言葉ではない。


しかし外部を外部とし、外部を内部と分割して見ている私達・自我をあらしめているのは、この内部の極小の一点であり

この極小の一点から呼吸が起こり、心臓は動き、外部は外部として、内部は内部として投影されているのではないか。


自分を含めた現象世界はこの内部内奥の極小から投影されているのだ。

と思ったりするこの頃である。