視点
視点とは見ている位置のこと、
この見ている視点が賢者と私達とでは全く異なっている。
何故異なっているのかというと、「見ている主体」が全く異なっているからだ。
賢者が見ている視点とは脳の私からではないので、私達、脳からの視点ではその視点が理解できないのだ。
通常、私達は目が覚めては、この脳が機能し、この脳が知覚している思考と感情と記憶と
そして前頭葉が生み出す私・自我が活動している。
夢の中では夢の身体であるサイコノエティック体(幽体・霊体)が機能して、その目からその目の世界を
知覚し、それが認識している。
ここで夢を憶えていると云うことは肉体の脳とそれらの脳が密接に繋がっている証拠でもある。
この肉体の脳の前頭葉が生み出す「私」とその反応、そしてそれに密接に絡んでいる幽体や霊体の脳が生み出している「私」
とその反応、それらは共に記憶の反応であるけれども、それらの「私」とは
賢者の云う「起こっていることに巻き込まれている、巻き込まれないようにしなさい」と言われている「わたし」のことではない。
それらは起こっている脳の反応、即ち自我のことであり、肉体の脳と、幽体や霊体の脳が生み出している「私」であって
この起こっている「私」に巻き込まれている「わたし」・・・・のことではない。その「わたし」とは霊魂のことだから。
この起こっている諸々の脳が生み出した「私」とは、行為によって生み出されている私のことであり、記憶の私の事。
この私とは、朝になると、目が覚めて意識している私であり、夢の中の私の事だ。
Kによって「あるがままを見なさい」といわれている「わたし」、「これらの現象という起こっていることに巻き込まれてはいけない」
と言われている「わたし」とは、現在は巻き込まれ切っており、巻き込まれていることすら意識していない状態にある。
すなわち眠っているのだ。「見なさい」と言われても眠っているのだ。
今現在は、「わたし」は完全に眠り込んでおり、幾多の輪廻のなかでも、決して目が覚めていない状態であり、
賢者達によって「思考なく見なさい」「目を覚ましなさい」「起こっていることに巻き込まれ、一体化してはいけない」と
云われている「わたし」のことである。
この「わたし」とは現在、眠っている状態である。
この「わたし」こそ、呼吸と共に頭頂から肉体に入り松果体に位置していると「わたし」のことではないか
これは、いわゆる霊魂と云われている「わたし」のことであり、肉体の脳の私、幽体霊体の脳の私や
その記憶体の私のことではない。
この「わたし」が肉体脳の「私」と、幽体・霊体の脳である「私」に完全に被われ、眠ってしまっているので
賢者達は「目を覚ましなさい」「起こっていることに巻き込まれてはいけない」と教えておられるのである。
この賢者によって「目を覚ましなさい」「思考なく見なさい」と云われ続けている「わたし」は今現在、熟睡中であり、
眠り、夢見、覚醒の間を眠ったまま過ごしている。目が覚めず眠ったまま輪廻転生を繰り返している。
賢者によって「起こっていることに巻き込まれてしまっているので巻き込まれないようにしなさい」「あるがままを見なさい」と
云われ続けている「わたし」は今現在は眠ってしまっているので、まず眠りから目を覚まさねばならない。
けれども
この「わたし」が眠りから覚めるには、この肉体の脳と、幽体や霊体の脳の条件づけが解除されないと
それは発生しないことだろう。霊魂と肉体や諸体は密接に絡んでいるので、三体が整合する必要がある。
眠れる森の美女のように、目が覚めるには王子がやってきてキス(恩寵)が起こらねばならないからだ。
しかしその恩寵とはこちら側からの働きかけではなくて、彼岸のあちら側からの働きかけに拠るのである。
ラマナ・マハリシ達の云う真我とはこの目を覚ましていない霊魂の「わたし」のことではなくて、さらに次元が異なっている
「全体の私 I AM THAT」のことだ
この真我とはハートに位置している普遍的、全体性の事であり、ここで話題にされている次元の事ではないということだ
さて元に戻ってこのキスという恩寵が起こる条件とは完全なる自己放棄、全託、明け渡しのこと。
それは
何かに到達したり、それを獲るために全託したりすることを完全に辞めたとき、それはあちらからやってくるのだろう
真我の覚醒を獲るために自己放棄をしたり、恩寵を獲るために献身することは、この脳が生み出した、自己中心的行為
自己関心という自我の働きにまた戻ること、マインドという「自我」の中に又戻ってしまうことだ。
なろうとすること、至ろうとすること、手段、動機、利用、目的、考えること、求めることは自我の働きだ。
目的や動機を全く持たない自己放棄や献身、感謝が鍵になるがそれは自我が行うのではなくて起こること
それらはやってくること・・・・だと