私の反応を凝視する
賢者は私達に教えられている
私・自己・自我を観照しなさい。あるがままの私を凝視し観照しなさいと
あらゆる自己の反応を観照しなさい、
あるがままの私を変えようとしたりせず、あるがままの私を受け入れなさい。
自己から逃避せずに、自己を抱きしめ、自己を凝視しなさい
起こっていることを受け入れなさい(起こっていることに対する自己の反応を凝視しなさい)
苦しんでいる私を受け入れなさい、動揺している私を暖かく見守りなさいと。
苦しみから逃げようとしたりせず、変えようとしたりせず、苦しみを味わい、苦しみと共にありなさい、
行為している私を非難せず、判断せずに、行為している私とそれに対する私の反応を見守りなさい。
恐怖を平安に変えたり、恐怖を解決したりするのではなくて、恐怖でありなさい、恐怖の中に飛び込みなさい
動揺を解決するのではなくて動揺しなさい、苦しまないようにするのではなくて苦しみでありなさい。
イライラを解消するのではなくてイライラでありなさい、その起こっているイライラをじっくり味わいなさい
苦しみを味わいなさい、苦しみを見なさい、苦しみでありなさいと
真我になるのではなくて、「真我になろうとしている自我」の中に飛び込みその自我を味わいなさい、見なさいと
真我を実現しようとして、藻掻き、混乱しているのに静かに瞑想していると詐称する自我を受け入れなさい、
この自我を味わいなさいと。
内部と外部に起こっている良きことと、そうでないことに対する私の反応、私の姿、私の苦しみ、私の動揺を抱きしめ
苦しみ、動揺でありなさいと。
苦しみから逃れようとてしいるのが苦しみの常態であり、動揺しないように努力したりするのが動揺の本性なのだ
恐怖から逃れよう、平安であろうとするのが恐怖であり、怒らなくしようとしているのは怒りなのだ
自我を改善し、良くなろう、真我に至ろうとするが自我であり、自我を撲滅しようとするのが自我なのだ
なぜなら真我には自我は存在せず、真我は決して自我を撲滅しようとしたり、真我になろうとはしないからだ。
それゆえに、この起こっている行動と、感情をただ見守りなさい、自己をただただ観照しなさいと
自己とは他己と同じくそれは起こっている現象、神のリーラなのだ、神の演技なのだ。
苦しみや恐怖から解放されるのではなくて、苦しんでいる私、怯えている私、恐れている私をただただ受け入れなさい
その苦しむ私、怯える私、恐れる私から逃れようとしたり、
問題を解決しようとしたりせずに、問題を受け入れ、問題と一つになり、問題に苦しんでいる私を受け入れなさいと
そのときあるがままからの解放が起こるであろうと言われる
肉体に入った以上は、プログラムされていることは必ず起こるであろう、
起こる出来事は必ず起こるであろう、出来事はプログラムされているように起こるであろう
内部も外部も起こる事は必ず起こるであろう
肉体と同一化した以上は良きことも良くないことも必ず起こるであろうと言われている。
この肉体に入ったゆえに起こる行為と出来事と、起こっている思考と感情をただただ非難せず観照することだと
この肉体に入った私の、「出来事と、行為と、思考と、感情に同一化し一喜一憂しているこの姿」を判断せずに観照しなさいと
肉体に起こるであろう良きことと良くないことに対する私の反応を、私の右往左往する姿を非難せずに凝視し観照しなさいと
起こっている出来事に反応している私を、肉体と同一化している私を、行為を
行為は起こっているのに、自分が行為していると錯覚しているこの私を
非難せず、判断せずに、暖かく受け入れ抱きしめること、自我を抱きしめること。
悩んでいる私、苦しんでいる私、恐れている私、不安の私を抱きしめなさい、凝視しなさいと。
自我を見ているのは自我であり、恐怖を見ているのは恐怖に他ならない
目の前に自分とは分離している他人を見、その他人の中に自我を見ているのは、他ならぬその同じ自我である。
自我と真我を別々に捉えているものとは自我に他ならない
解放とは観念である「真我という自我の思い」の中に在るのではなく、この自我の中にこそあるのではないか?
それが「虚偽の中に真理を見ること」なのではないか?
・・・と思われる。