自我と真我

今朝、フト思ったこと


私・自我(エゴ)とはすべての人類で同一であるが、
特定の肉体と結合したため
その特定の肉体に起こっている行為やその才能
肉体の脳の働き、そして記憶(個人・ワサナ)のことを自分自身だと
思い込んでいる。

しかし実際には自我(エゴ)とは個別でもなく真我とも分離していない。
それは真我があるから自我(エゴ)は生きていられるのであり、

肉体に譬えれば
呼吸が止まったら生きておれないのと同じである。
自我(エゴ)も熟睡がなければ生きてはいれないのである。
わたし・自我(エゴ)とは人類の全ての脳で働いている同一で
単一の「私という観念」そしてその記憶なのではないか。

この私達人類の私意識とは人類で単一の自我(エゴ)なのではないか。

この自我(エゴ)が自我(エゴ)自身を観照するとき自我(エゴ)は
存在せず真の私が本来の姿を顕す
と教えられている。

真我に関しては私は知らないが、知覚し知覚されているこの私、生じている意識ではなく
この意識の源泉の次元を貫通している根底の普遍的意識、人類には未踏の愛であることだろう。


自我(エゴ)は自我(エゴ)自体では存在出来ず、真我(熟睡を観ている意識)がある故に
実存している。(ラーマクリシュナはこれを「自我は神の演技」と表現している)


自我(エゴ)にはするべき事や目標や理念そして解決すべき問題が山積しているが
(自分は肉体であり、行為は自分が為している、思考は私が思考していると思っているので)
けれども
真我の人には何も問題は無く、何もしておらず、何かに成ることもない。今ここあるがまま
で全てが完全完璧であると看破している。

真我は人々の中に真我を見ているので、全ての人を自分と分離していない
自分自身・真我と見ている
これに対して
自我(エゴ)は他者やものを自分とは異なる対象即ち他人・それとみている
自分とは別だと見えているしそう思っているしそう実感している。
自我(エゴ)に見えるものとは善人や悪人であり、自我には自我しか見えていない。
真我には善も悪もなく、敵も味方もない、全ては真我であるからだと。


真我は全てのものを自分自身とみているので、私は世界であるとみている。
対象と主体の分離がないのである。(我はそれなりと見ている)主客は分離していない。
これに対して
自我(エゴ)は世界や人類を自分ではない対象、認識対象だと見えている。
自分が見ているもの、人、世界、宇宙は自分ではないと思っている。


真我は全ての人に自分自身である真我を見ており、従って真我から真我へ語りかけている
これに対して
自我(エゴ)には真我とは「未知なる意識」「熟睡」であり他人の中に真我を見る事が出来ない
他人の中には、自分とは別のように見える自我しか見る事が出来ない。


真我は神と自己が分離しておらず、全てを神とみている。神以外に何ものもないと見ている。
これに対して
自我(エゴ)は神を視覚や知覚の対象になることもあるのだと思い込み、知覚や認識の対象として
(即ち私は別のものとして)出現する神、自分を神だと宣言している救世主を神だと錯覚している
しかし実は神とは外部の知覚対象ではなくて内奥の未知なる絶対主体なのであると教えられている。