慈悲心




慈悲心とは悲しみを「見た」ときに起こるものだと教えられている。


けれども通常の人生では老いて死ぬまで悲しみを避けたり、感じたりしないようにしたり、ワークしたり

悲しみを避けるために悲しみと同一化して泣き、涙を流し、慟哭したりして自ら巻き込まれてしまっているので、

決して悲しみと出会うもことなく、そして人生の終末を迎え、また肉体を離れて転生してしまうこととなる。


私達は悲しみを味わっているというが、ほんとうは

悲しみを避けているために、悲しみに出合うこともなく、悲しみを「見る」こともない。

実際はそれは悲しみを味わっているのではなくて、悲しみから目を逸らしているのだ。

自己から目をそらしているのだ。そして自己とは悲しみなのではないか。



悲しみは一人一人の心の奥低にじっと身を潜めているが、日の目をみることはおそらくないことだろう。

私は悲しんでいるというが、それは悲しみから避けているのであり、悲しみと同一化して、

悲しみと出会わないようにしている。

自分が自分に出合わないようにしている。



私の心の奥底には依然として悲しみがあり、それは固く身を閉ざし、もはや何も受け入れない悲しみの私がいる。

絶望しきった「私」が心の底にいることに気がつかない。

自己を味わおうとはしないのはその自己である自己の観察者である。



この悲しみに目を向けないのは、自分自我が自分自我と同一化しているからであり、

自己・自我が自己自我と同一化している限りは

自我を見ることはないし、悲しみを見ることもない。自己と同一化するのは自己自我の特性である。

さらに自己自我は一見高尚な諸々の真我の観念と自己同一化して生き延びようとする。



だから私は悲しみに目を向けているのではなくて、悲しみを避けているのだ。

自己である悲しみを自身を避けているのは自己自身である。

エゴを非難しているのはエゴである。

エゴを非難することによってエゴがエゴではない振りをするのである。

それ故に、自我が自我と同一化している限りは悲しみを正視出来ないのである。

実際には私こそがその悲しみなのではないか。

私・自我が私・自我を非難又は同一化して、避けよう逃げようとしている。

自我エゴは自分を見たくないので自分を非難し、逃避し、同一化して存続を図っている。



この個人「自我」という悲しみに出会うこととは、

自分を慈しむこと、自分を愛することであり、同時に他者を慈しみ愛することでもある。

私・自我が私・自我を抱きしめることだ、

自分が自分に耳を傾けるのである。

この「自我」を慈しむ心とは、

私の悲しみ、自我の悲しみを一緒に味わうことに他ならないことだろう。

そこに自我自己の終焉と超越の可能性が起こるのだろう。



この私、この「自我」、この悲しみに、もし出会うことが出来れば、

そこには慈しみが生まれていると言われている。

自己・自我が自己・自我を見ることが起こっているからである。

自我は神の演技だと教えられているが、そのとき演技者が顕れる。

そこには自己観察が起こっているからだ。



自己・自我を避け、悲しみに出会うことのないように人生を生きている限りは

決して自我との出会いもなく、その自己・自我の終焉も、超越も起こらない。


自我を避けているのは自我であり、

ほんとうは自我が自我を抱きしめるのだ

自我が自我を見るのだ。


不安・恐れ・イライラ・心配を非難することなく、避けることなく、この起こっていることを礼拝し受容するのだ。


そのとき自我ではないもの、個人ではないものの誕生の可能性が起こると教えられている。


この私という悲しみに出会い、自我が自分を抱きしめるとき、大きな慈悲心の誕生の可能性が生まれるという。

このとき自己超越の可能性が生まれると言うこと、「本来の面目」が誕生する可能性が生まれると言うこと。



さらにこれが個人の悲しみではない、全ての人類の大きなとてつもない巨大な悲しみに出会うとき

そこに人類を抱きしめる御仏の大慈悲心の誕生があるという

それが仏教でいうところの大慈大悲の心であると思われる。

大慈悲心とは個人を超えたすべての人類の悲しみを「見た」ところに生じているのであろう。

この個人的ではない大悲を見ることが大慈であり、それが愛なのではないだろうか。

そこに垂直の次元が開かれるのではないだろうか。