誰が悟るのか


誰が悟るのか、悟るのは誰か?

誰が到達したのか、到達するのは誰か?


悟るべき私とはいない、到達するべき私とはいなかったのだ

悟るべき私とは実はいないのである。そのことの実感が起こるのだろう。

悟りが誕生するときには(私にではない!)私がいないからである。

それは悟り自体が誕生するということなのだ。




私とは思考によって生み出された虚偽の実感である。

思考は起こっている。

思考は起こり続けている。

思考が「思考する私」を生み、行為が「行為する私」を生み

その記憶が「記憶する私」を維持させている。

思考・記憶・行為・・それが私の実感の本体であるからだ。



変革し、成長し、到達する私とはいないのである。

変革も、成長も、到達も、行為や思考と同じく、

根源それ自体が起こしている演技である。

全ては根源のものであり、私やあなたのものではない。

私とあなたは根源そのものの演技である。


全ては根源の中であり、根源しかいないのである。

思考は起こり続け、行為は起こり続けて、この私を産み続けているが

行為も、思考も、そしてその結果であるこの私も根源の演技である。




悟るべき私はいない。

到達すべき私などいない。

悟りが起こるとき、私はいないことだろう。

そのとき根源が本当の私だからだ。


悟ることは起こるのであり、その悟りとは私がいなくなることであり

悟るべき私とは実はいなかったことの実感が起こる事、

即ちそれが悟りである。

そしてそのとき私はいない。


私とあなたの個人の実感とは根源による虚偽の感覚である。

その虚偽とは思考であり、心であり、行為であり、

それらは生じていることがらだ。



この私とあなたの区別の実感は思考が起こしているのであり

思考は根源が起こしており、

その根源とは未知であり、

その未知なる根源は一つである。


「あなたは私とは異なっている」と見ているのは思考であり

それが私という実体感覚の正体である。



思考と心を使って演じているのは根源であり

あなたも私も根源が演じている根源そのものなのだ



しかし私達とは

深い根源のマーヤであり、あなたは私ではないと

私は自分が行為している、私は自分が考えている

私が知覚し、私が記憶し、私が考え、私の心だという

この「私という観念」=心そのものなので、


到達し、悟ろうという利己的欲望が起こるのである

即ち、根源による錯覚と言う演技が続いているのだ。







との思考がこの個体に起こっている