I AM







今日は主格の「私」について思考してみた

Aさんの主格とBさんの主格は、主格において全くの同一である

それは「私」だ。


このわたしの「私」も、あなたの「私」も同じ主格、同じ第一人称の「私」なのだ

私の主格とあなたの主格は異なっていると思われているが、そうではない

主格である「私」は意識されず、知覚されず、認識されていないが、その主格が「私」だ



通常、人は意識することなく、私わたしと思っているが

それらは同じ第一人称である主格・「私」であることは変わらない。

あなたの「私」も、わたしの「私」も同じ「私」なのだ。


「私」の思い、「私」の悩み、「私」の身体、「私」の行為とは

すべての人類で同じ同一の主格の私・・・それは「私」のものなのだ。



この「私」を離れてはなにもない。何も存在しえない。



高慢の私は、「私」が高慢で有り、謙虚な私は、「私」が謙虚なのである

それは共に「私」である。


Aさんの人生は、Aさんという「私」の人生であり、Bさんの人生もBさんという「私」の人生である。

それらは共に「私」の人生であることには変わらない。


殺す者の「私」も、殺されるものの「私」も同じ同一の「私」。

「私」が殺すのであり、「私」が殺されるのである。

殺す者も、殺される者もそれは共に主格は、同じ「私」なのである。

「私」が殺し、殺されている。



心や思考に関して言えば

Aさんの心はAさんという「私」の心であり、Bさんの心もBさんという「私」の心なのだ

思考や感情や心に関してもそれは共に「私」の心であり、その「私」という同一の主格は変わらないのである。



体や脳や諸体や行為に関しても

Aさんの体や脳や運命や行為はAさんという「私」の体、「私」の脳、「私」の運命、「私」の行為であり

Bさんの体や脳や運命や行為はBさんという「私」の体、「私」の脳、「私」の運命、「私」の行為であり

それらは共に同じ第一人称、同じ主格、同じ「私」

異なっていない同一の「私」の体、「私」の脳、「私」の運命、「私」の行為なのである

私達はまったく全て同一の主格「私」であり、「私」とは自他に於いて一つなのである。


この「私」を離れてはなにもない。何も存在しえない



人類はこの「私」という言葉をいつも使用しているのに

言葉の意味を誤用し、その言葉の内容を理解していない。

言葉は神であるのに、言葉を理解しない。



憎む者の「私」も、憎まれている者の「私」も共に同じ「私」である

キリスト教を信じている者の「私」も、イスラム教を信じている者の「私」も、共に同じ「私」である。



世界を支配している者の「私」も、支配されている者の「私」も同じ「私」である。

身障者の「私」も、健常者の「私」も同じ主格であり、それは「私」である。

悟っているものの「私」も、悟っていなものの「私」も同じ「私」である。

あなたの「私」も、わたしの「私」も同じ「私」である


幸運なものの「私」も、全く幸運から見放されているものの「私」も同じ「私」である。

才能の有るものの「私」も、全く才能がないものの「私」も同じ主格で有り、共に同じ「私」である。


あなたをわたしとは別人だと考えている「私」も、わたし自分とは個人でこの人格が私だと

考えている「私」も、それらは同じ「私」であり、主格においては全てが同じ「私」である。



ただ人類においてはその主格・「私」が意識化されていないのである。



このことをそうではないと否定するあなたという「私」も、そうかもしれないと思うあなたという「私」も

同じ主格であり、その主格は「私」である

「私」は人類において全く一つだ。

ただ自覚されていないのである。


と思われる。