誰に語られているのか



賢者は誰に対して「目覚めなさい」と語っているのだろうか?

賢者は誰に対して「在りなさい」、「心なく見なさい」と語りかけておられるのだろうか?


《これは成功するとか、自己実現するとか、幸福になるとか、健康になるとか、神と一体になるとか、悟るとか

そういった利己的で自己中心的なことに関心がある方ではなく、欲望と願望の仕組みを理解し、最早どこにも

動くことがなくなり、クリシュナムルティーの理解を深めよう、私とは誰かという真我探求に取り組もうとする方々

の思考だ》


このラーマクリシュナやラマナ・マハリシやシャンカラなどの不二一元論の賢者は誰に語っておられるのであろうか?


これは内なる真我であるけれど「私という観念」に覆われており、自分を思い出せないでいる霊魂・個別的霊魂にか?

それとも

内なる真我から投影されている私、個人、人格にか?即ち被造物であるサイコノエティック体である私・思考体にか?

このプログラムの結果であり、この起こっている進化している諸体の記憶に対してか?



この真理からの言葉とはクリシュナムルティーの「「見るものは見られるものである」であり

「あるがままをあるがままに見よ」であるがこれは真理そのものの状態であり、この次元には愛しかない

また「行為者はいない行為が起こっているだけだ」「思考者はいない思考が起こっているだけだ」という

これらの真理・真我からの言明


これを私達に当てはめてみると

「行為者」即ち「自分が行為していると実感する者」とは、起こっている行為が生んでいるサイコノエティック体だ、

「思考者」即ち「自分が思考していると実感する者」とは、起こっている思考が生んでいるサイコノエティック体だ

・・ということになると思われる。


この事は現在のパーソナリティーとは私達ではなく、真我によって投影されている私・自己意識体であると云うことだ。


肉体に入った個別的霊魂である私達は「心臓の結節が閉じられている」ので、即ち個別的霊魂が「私という観念」に

包み込まれ、それらが生み出している自我と自己同一化してしまっており、自分を思い出せないでいるのである。

神聖なるマーヤから投影されている行為、思考や欲望や感情を見て

そしてさらにその行為と思考が産みだした私、即ち

「自分が行為し、思考していると実感する゛起こっている思考・行為が生み出した者・現在の私・個人゜」を見て

その私が自分だと思い込んだのである。


その思い込みが深く私達である個別的霊魂を汚染させ、「至ろう」「なろう」とする恐怖である私という観念に、即ち

その私という観念である自我に自己を同一化してしまったのだ。私達は自我ではないのだ。心ではないのだ。


それ故に賢者達は私達である個別的霊魂(本体は全体である霊である)に対して「自己なく見よ」言われる。

私とは私達ではなく、分離している自己意識とは私達ではない。欲望も記憶も私と名乗っているが私達ではないものだ。

「なるのではなく在りなさい」と言われる。私達である「心や思考や記憶や自己ではないもの」に対してこのように言われる。


『あなたは神の宮である肉体とそのエーテル複体ではない。

あなたは起こっている行為や思考ではない。

あなたはその起こっている行為や思考によって形成されている思考感情体・サイコノエティック体ではない。

この輪廻転生の際にあなたに引き寄せられるカルマやサムスカーラ及びこれらのサイコノエティック体である人格個人は

誤って思考主体、行為主体とされているが、それらの輪廻する現在のパーソナリティーとは決してあなたではない。

輪廻転生している私とはあなたではなく、転生する私を観照しているのがあなたなのだ。

あなたはこれらの被造物ではない。あなたは創造されたものではなくて、創造するものなのだ。


あなたは創造主自身なのだ、これら個人人格などの創造されたものは創造主である真我を通じて投影されている。

あなたは自他に分割されておらず、全体であり霊であるのに、自分を個別的霊魂のように思っている

しかし実はあなたとは個別的霊魂であると同時に普遍的な魂で有り、霊であり、真我なのだ・・・・』と


私達は霊魂なのに自分を肉体と同一視し、自分が行為していると実感する現在のパーソナリティーと同一視している。

即ち、起こっている行為と同一化している自我、自分が行為していると実感するサイコノエティック体という

現在のパーソナリティー・人格・個人と同一化してしまっている個別的霊魂があなたなのだ。と


私達はこれらの創造されたものではなく、また思考や感情でもなく、私という観念でもなく

全体と分離できない個別的霊魂なのだ。と


私達は創造されたものではなく創造する根源自身の分割されない霊であり、その時空を超え分離のない霊を

構成している一部・個別的霊魂なのだ。と・・・それ故に賢者達はこの私達に対して「思考なく、心なく、私なく

あるがままをあるがままに見なさい」と言われるのだ。


けれども

熟睡時に真我に戻ってきても、シルバーコードによって肉体に戻ったときには、その自分の本体である真我を

思い出せないでいるのは自身を現在のパーソナリティー・サイコノエティック体即ち心と同一視しているからだ。

熟睡時に肉体に現在のパーソナリティーと共に留まっている霊魂が一緒に眠ってしまっているのではないか

肉体の死に際してこの現在のパーソナリティーと共に肉体から離れる霊魂がマインドに覆われて迷っているのだ。



私達は肉体でもなく、エーテル複体でもなく、過去の人格であるワサナでもなく、その特性であるサムスカーラでもない。

私達はカルマでもなく、想念形態でもない。生起する行為でもなく、思考や感情でもない。

私達は自分が行為していると実感するサイコノエティック体でもなく、現在のパーソナリティーでもない。

私達とは個人や人格ではなく、自我ではなく、「私だという私という観念」でもない。

私達は行為を為しておらず、行為によって生じている行為者・自己(サイコノエティック体)でもない。


私達はその「自分が行為していると錯覚する者」・自己自我を自分自身と思い込んでしまった個別的霊魂である。


私達は全体であり分離できないのに心・マインドと深く同一化してしまったがゆえに「自己を思い出さないでいる霊魂」なのだ。

私達は「自分は真我であること」「自分は霊であること」を思い出せないでいる個別的霊魂の一部なのだ。と




(※これは非常に込み入っている概念が多用されているのでこのホームページ上にあるエレブナなどの
画像を参考にすると良いのではと思います)