傾聴


傾聴する、耳を傾けるとは何だろうか

それは正しく見る事でもあることだろう



私・久保栄治には未だ聞くことも、見ることも起こっていない。


通常の聴くこととは記憶の反応であって、実は聞いてはいない

心の中ではお喋りが続いて判断と評価が行われ、そこには

聴いている私がいる・・・それは集積している記憶の反応が働いていると言うこと。

(ここで話している事は、こうした思考によるお喋りすらないさらなる低次元・未発達の

洗脳やマインドコントロール、思考以前の段階の無意識的状態を話しているのではない。)



これに反して、K達が言う聴くとは、記憶の反応なしで、即ち判断や評価なしで

ただただ耳を傾けると言うこと。

この真に耳を傾けているところには判断する私はいない。


これは聴く主体が全く異なっていることでもある。

一方は脳の記憶・思考の反応であり、一方は思考を超えた全体性・観照・叡智である。

次元の異なる意識が誕生しているとき、聴くこと、見る事があるのであり、このマインドの中の現象諸界では

見ることもなく、聴くこともなく、記憶の反応だけが生じているのだ。



各体の脳の記憶の反応とは自動的に聴く私と聴かれる対象であるあなたの分離を起こすので

聴く私と、聞かれる対象であるあなたという分離、分割が生じてしまう。


これに反して観照状態、即ち実際に見ており傾聴することが起こっているときには

聴く私と、聴かれるあなたとのその分離がない。


これは言語や想念・思考の伝達テレパシーの次元でもなく、心の直接的疎通の次元でもない。

言語を超え、思考を超え、想念を超え、心を超えた沈黙の神聖なる創造である「神の言葉」の次元なのである。




K的に言えば「恐怖を見ているとき、見られている対象である恐怖と恐怖を見る者は分離していない

私が恐怖である」・・・・・そして、これを見ている観照状態、この非分離にはただただ愛だけがある・・・・という


観照とは即ち愛であり、全体性であり、主体と客体が一つであり、そこには分離できない愛があるという。

この観照の状態とは「観察者は観察される者」「恐怖を見ているものは恐怖である」

という非分離の真理状態であり、聴いている、見ているという観照している状態である。


聴く私と聴かれる対象であるあなた、見る私とみられる対象である恐怖が分離していない状態

即ち観照とは非分離であり、この三界の現象界である思考には全く理解できないこと

即ちそれが「聴くこと」、「見ること」なのである。


この観照とは思考の特徴である評価すること、判断すること、命名すること、自分が見ており聴いている

という感覚が未だあり、自分が見ているという実感が残っている限り誕生していないという。


思考には「私なく見ること」「思考なく見る事」は出来ない。思考が私であるからだ。


見聞きしている私がいる限りは、見ることも聞くこともない。記憶が反応しているからである。

思考には思考なく見ようとすること、即ち観照に席を譲ろうとすることは出来ない、

そのふりをすることだろうが、実際は悟りなどの自己の報酬を求めている・・・思考は狡猾だからだ。

見ること、聴くこと・・・、それを可能だとか不可能だと言っているものが思考である。


それにも拘わらず思考なく見ようとすることとは、観照からの働きかけが起こっている証拠だ。

思考なく見ようとすることの熱意、その情熱こそが観照からの働きかけなので有る。


思考に思考の基底からの働きかけ、観照からの働きかけが「啐啄同時」である。

自我という殻を破る親鳥(恩寵)が雛の行動を誘引し、この卵の殻は打ち破られる。

恩寵が「思考なく見ようとする」「私なく見ようとする」ことの熱意だ

観照が、自我の奥で働いているので「自身を超越」しようとする発願と熱意が生じている

私達思考が観照している「愛」に席を譲るのだ。


Kは言う

「恐怖を見ているものは恐怖で有り」これを観照しているのは愛であると

そのとき見る者と見られる対象の分離は終焉していると

すなわち自我の終焉であり、思考の停止であると同時に観照の誕生である。と


「見るものは見られるものである」とのメッセージは「至高なる愛」からの高次の言葉なのだ。