自己とは生起している





この私・自己とは起こっている現象であるといえよう

脳や各種身体、各次元の知覚、感覚器官や、思考器官を含め

その働き、

即ち、反応、記憶、心象イメージ、思考などの正確な働き

さらに、それを統括する統覚機能(個別的霊魂)を含め



そして、私という分離した自己感覚である「私という観念」

これらは絶対的正確性を以て

まさに狂いなく起こっている現象であるといえようか。



思考、欲望、行為、出来事はまさに起こるように正確に起こっていることだ。

これらに対する記憶の反応も、狂いなく起こるべくして起こっている。


高慢や嫉妬心や恐怖や不安や希望絶望、愛憎、好悪、成功失敗は

起こるべくして起こるように起き、そして去って行く

・・行為がそうであるように。

この私自身がそうであるように・・・。




自己とその意識は正確に生起している。

生起していることとその反応も含めてすべてが「あるがまま」なのではないか


反応である私・自己意識とは時計の針のように狂いなく生起している事柄だ。

何一つ足すこともなくひくこともない

「あるがまま」があるがままに生起している。

勿論、カルマや衝動、願望や欲望もそしてその結果も

それらは自己である私と共に起こるように起き、そして去っていく

この継続している自己は起こり、そして滅する。



また運命という”肉体が自分だとした観点である”もの、即ちこの現象の私には

これらの外部の出来事・運命は正確に起こっているように起こる。

それらはまさにその様に一瞬の狂いもなく起こるべく起こっていることだと。

このことは「タタータ・あるがまま」といわれている。



これをその様に思っている私自身も瞬時の狂いもなく起こっていることだ

これは「あるがまま」であり、これを思わないことも「あるがまま」である。

この複層構造の自己自身が「あるがまま」を構成している一部分であるからだ。


この私自身が、この心とこの欲望とその反応を含めて

内部と外部が超正確に「あるがままに」起こっている。これが「タタータ・真如」である。


内部内面とは起こっているのであり、自分が起こしているのではない。

さらに

起こっている事への反応は、私が起こしているのではなくて起こるように起こっているのだ。

このように自分が起こしているという嘘の実感、即ち幻想の私が起こっているのだ。

私が思考しているのではない、思考が起こりその思考が私と言う実感なのである

私が行為しているのではなく、行為が起こってその行為が私と言う実感を生んでいるのだ

私が思考しているというこの私、私が行為しているというこの私

この私こそがマーヤ(神聖なる幻影)に他ならない。


「あるがまま」を受容することも、受容しないことも

それらは行為と同じように

正確に、一瞬の狂いもなく起こっている。



内面と外面、内部と外部はこの私として「あるがまま」にまさに起こっている。

これらは神聖なるマーヤ・現象そのものであると言えよう。


しかしながらこの生起している私ではない私、「I AM」、「全体であり主体である私」

現象を生起させている未知なる「私」、分割不能の「時空間を超えている私」は

この接点(個別的霊魂)には未だ誕生していない