現在のパーソナリティーの位置
この私、心の私、悩み苦しむ私、即ち未形成の現在のパーソナリティーが位置しているところは
心臓の近くであるという
(この自己・サイコノエティック体は再形成されると人体と同じかたちになるといわれている)
それに対して頭とは頭脳としてプログラムに従って起こっているマインドを受けとる受信装置であり
思考や感情、記憶、知覚、具体的な想念や観念を受けとっており、カルマとサムスカーラに従って
生起している行為もここで行われている、ワサナもここ頭で受信されている。
そしてそれら頭での思考・感情はハートに位置する現在の私、現在のパーソナリティー
によって誤って自己自身だと認識されている。
しかしこれらは共にスクリーンの上でまさに起こっている事柄であろう。
実際にはここで起こっていることは現在のパーソナリティー自身をも含めて個人的な事柄は一切ない。
現在のパーソナリティーそのものがサイコノエティック体という思考体・感情体であり
この現在のパーソナリティーが鏡に映し出されている意識的自己であり、それは未知である真の私という鏡ではない
一方、永遠のパーソナリティー(現在のパーソナリティーにとっては未知である)と共に
肉体と繋がった、現在のパーソナリティーは永遠のパーソナリティーによって投影されているともいわれる
永遠のパーソナリティーとは被創造物ではない、根源そのものであり、造られたものではない,創るものだ。
知覚されない、認識されない、しかしそれなくしては知覚もなく認識もない鏡である未知なる永遠のパーソナリティー
知覚を知覚し、認識を認識し、輪廻を歩むこの私を抱きしめている永遠のパーソナリティー、私を観照している I AM
根源の、全体なるものの、愛であるものの、神聖なるものの分離不可能な一部であると言われるものの上に
現在のパーソナリティーが投影され、輪廻の人生を歩んでいる。
この未知なる永遠のパーソナリティーという「鏡」若しくは「根源的霊・又は魂」というスクリーンの上に
創造され、投影されたのが現在のパーソナリティーであり、それがこの転生している私である。
そして現在のパーソナリティーは脳が受信したワサナの反応を自分の反応だと錯覚している
この意識的自己は自分の源泉・実相を知らずに輪廻の人生を虚しく歩んでいるのだ。
現在のパーソナリティーとは未形成であり、
頭で起こっているこれらの、見ること、聞くこと、考えること、行為すること、出来事を自分がしていると確信しており
頭で受けとっているものにも拘わらず自分が考え、感じ、行為し、計画し、知覚し、記憶していると勘違いしている。
だが、それらは脳が受けとっていることがらなのである。
それら起こっていることは、現在のパーソナリティーの自分に起こっていることではなく、頭で起こっている出来事である。
それなのに肉体に起こっていることに巻き込まれているのが、心の私・現在のパーソナリティーであるのだと言える。
この現在のパーソナリティーとは胸にあり、エレブナではサイコノエティック体と言われている「この私」のことだ
通常、肉体に繋がっているときも、肉体を離れて異なる次元に移行しても、自分だと自己意識している私
熟睡を観照している永遠のパーソナリティーによって見守られている私
この自己、自我とは熟睡(又は死亡)によって毎回継続し、蘇生させていただいている自己意識の私の事である。
再び言うと
この胸に位置する心の私(現在のパーソナリティー)が頭に起こっている思考や、感情や、行為や、出来事を自分が為している
自分が思考している、自分が自由意志で選択している、自分の肉体だ、と実感してしまっているのである。
ワサナの反応を自分の反応だと思ってしまうのである。
自分が行為していると錯覚しているのは胸に位置する自我であるサイコノエティック体の私である。
しかしよく考えれば
現在のパーソナリティーが頭で起こっている思考や想念や記憶(ワサナ)を自分自身だと錯覚しているのも無理もないとも言える
なぜならば、神経で脳や身体の各部位と繋がっているからである。この意識的自己が自分は身体だと思っているのだ。
プログラムされた肉体の行為を、自分が為していると思い込み、受信された思考を自分が思考していると思い込むのだ
現在のパーソナリティーとは未知の私(永遠のパーソナリティー・霊・魂)とともに肉体に入り、肉体には神経を通じて
密接に繋がり、その結果として、この自我である私が、この肉体のことを自分の肉体であり、
行為のことを自分が行為しているのだと
実感しているからなのである。
だが胸に位置する「私」、現在のパーソナリティーは、未だ未形成であり、サイコノエティック体として蛹の状態であって
脱皮していない。
私達人類は蛹の状態であり脱皮していないのである。
この私、思考体・感情体と言われているサイコノエティック体が脱皮し、より高次元に対応したノエティック体とならないかぎり
この高次ノエティック体となった宇宙の真正なブラザーとの繋がりはなく、想念次元の疑似ブラザーとの交流があるのみ
であろう。
頭の私にたいして、心の私といわれるこの現在のパーソナリティーとは濁った水のようであり、
私という観念によって深く汚染され、とても光である真の私を通過させることはできないステイトである。
現状では、現在のパーソナリティーである心の私とは「私という観念」によって濁っている水の状態であって、
透明になり再形成されなければ宇宙の仲間入りはできない。それほどまでに地球人類は遅れているのである。
自己が再形成され、生まれ変わらなければ、(脱皮して)永遠のパーソナリティーと既に繋がっていることを認識できない
シルバーコードが機能しないのは心臓の結節がふさがっているからだともいえる。
胸にある心の私は「私という虚偽の観念」で濁っているので、透明な水にならない限り光を透過させられないのだ。
この私、現在のパーソナリティーも現象界の全体を構成している重要な非分離の一部なのだ
なのに「私という観念」は自己を他と分離していると意識し、対象を意識し、自分を対象とは異なっていると思っている。
どこにも分離はなく、全体だけがあり個別の分離したものはなにもないのに私という観念は自己は分離していると錯覚している
ということだろうか
賢者は言われる
『頭で聞くのではなく、心で聞きなさい
そして
心で聞くのではなく、沈黙で聴きなさい』・・・と
このハートに位置している「心の私」であるサイコノエティック体・現在のパーソナリティー・自己自我が
頭で起こっている行為と思考と自己意識、などの去来していることから距離を置き
この私自身とは、神聖なる魂のコーザル体によって引き継がれている
サムスカーラとワサナとカルマを伴った転生する記憶体であり
この現在のパーソナリティーとは根源の演技である。
ことを理解し
この私・自分・現在のパーソナリティー・この現在意識の私は実は何も行為しておらず、今後も何もすることもなく
私自身が現象界の一部として、神聖なるシステムの一部として起こっている結果なのであったこと
この現在の私とは、神聖なる根源の演技であることの理解が恩寵により訪れたとき
現在のパーソナリティーは静止し、もはやどこにも行かない、なにもしない
行為は起こり、私、行為者は行為が起こしていることの理解がある時
沈黙しているとき、そして沈黙がやってきたとき
判断や評価なくただただ凝視しているとき
それは内部からの恩寵である
そこに真の見ること、聴くことが起こり、内部の永遠のパーソナリティーとの繋がりの再確認が起こり
自己(サイコノエティック体)の再形成・再誕生が起こるのだろうか?