熟睡への考察
近頃起こっている考え・・
熟睡とは考察することができない事柄だ。・・・熟睡の中には意識がないからだ。熟睡は意識や心を超えているからだ。
熟睡のなかには考察するところの主体がなく、また考察する機能も働かず、考察される対象も無いからであるといえる。
熟睡は私個人を超え、私という観念を超え、心や私個人ではないからだ。
というのも熟睡の中には意識はなく、心もなく、私という観念もなく、従って、私がいないからだ。
熟睡とは意識や記憶が働かない状態、心が働いていない状態、私が無い状態、この熟睡とは意識や私という観念である個人や自我以上の根源的状態なのだ。
(パソコンで言えば電源であり、電源が入らなければ何も出来ないのだが、電源が入ればPCはいつものようにまた動き出すのだ)
熟睡から意識が生じ、私という観念・心が生じ、知覚が生じ、記憶も継続し、継続する個人が生じている。
熟睡という、意識を超えて生命をあらしめている根源の働きが「私・自我・個人」という錯覚を継続させておられるのである。
けれども、意識や心に関わらず、意識や心に左右されずに生命は実在している、それが生命である熟睡だ。
私は生まれて死ぬと思い見ているのは、肉体と同一化している私という観念の意識や心や記憶の方である。
意識の面から考察すればこの意識や主体を存続させ、継続させているのは、自我である私ではなくてまさしく熟睡であるからだ。
意識にとっては熟睡とは、意識がない状態即ち無、空、「何にも無い」状態、未知なるものといえるかもしれないが
熟睡が意識を支え、私という観念を支え、この現象を支え、そして私という観念が生み出した諸々のエレメンタル・想念形態=記憶を支えているのではないか
熟睡があるので生まれ変わりという輪廻転生も継続しているのではないか。
ある聖賢は統覚機能である個別的霊魂からこの私という観念は投影されていると言っている。
ということは大脳周辺系、前頭葉という自我の座、意識の座ではなくて、熟睡中も活動している脳の中枢の意識されない松果体から
大脳前頭葉の目覚めと同時に「私という観念」が生じていると云うことなのであろうか。
繰り返すが、意識は熟睡の中には無く、熟睡の後の目覚めに、又は夢の中に顕れてくる現象であると言える
そしてこの意識の中に、現在の私であるところの全人類に同一の「私という観念」が生じている
敵も味方も、どの人種も、天才も障害のある方も全く同じ「私という観念」であり、「私は個人だ・私は私だ」「私の意識であり、私の行為だ」と云うのである
それはそう実感しているものは脳の中枢部から投影されている私という観念に他ならないからであると言える。
これを書いている久保栄治とはまさに、この人類で同一のこの私という観念そのものである。
人類の意識とは脳の機能である同一の認識、知覚、感覚という私という観念の記憶の反応なのだ
熟睡がなければ意識もなく、行為もなく、個人も自我もない
熟睡がなければ、意識の中に顕れる私という観念もなく、私という観念である愛憎や喜びや悲しみや恐怖も欲望もない
というのも意識もその中身も、熟睡から生じているからだ。
この個体に、ある日心臓を動かし、熟睡を起こし、生死を起こし、行為をならしめている根源の気づきが起こるとき
クリシュナムルティーのいう「心なく見なさい」「私なく見なさい」と言うことが起こるのであろう
けれども、この気づきという「肉体を含めた諸体の脳の条件付けの解除」は
結果として発生している意識・記憶・自我がする事柄ではなくて
根源がなすことであり、起こる事である。
それは「すること」や「なすこと」「なること」ではなく
起こる事でありラマナ・マハリシ風にいえば「在ること」である
と思われる。