知覚作用



知覚は知覚対象を必要としている

また知覚は知覚するための器官と

その知覚を記憶・認識まで伝える伝達システム組織と

知覚を知覚として記憶させて認識する認識主体を必要としている。


これはまさに驚くべきシステムといえるのではないか

この中の一つでも正常に機能しない場合、知覚はありえない。

これらのこのシステムが働いているのでこの限定されている知覚は成立している。


知覚とは私が知覚しているのではなくて、この知覚システムが条件付けられたように機能しているので

「私が知覚している」との錯覚も、その錯覚が知覚する対象も成立している。



この各体の脳のシステムが現在のように非常に限られたものであっても機能しているので

「私が知覚している」との錯覚(=常識)が成立しているということなのではないか

正しい表現でいえば私が知覚しているではなくて、知覚作用が機能しているのでこの制限された知覚作用の

結果として、平均的人類に於けるような個別的な私という実感(錯覚)と

その錯覚が知覚する対象が生じている。

人類の知覚とは人類全員が同一の知覚システムの結果であるので、肌の色は違えども同様なる知覚なのである。



現在では脳の機能は制限されているので「私が知覚している」との錯覚も生じているし

その錯覚が知覚する対象も、自分とは分離しているというように主客分離して知覚されている

ようにおもえる。


脳の制限が解除されたときには全く異なる知覚が生じていることだろう

その知覚は「私という錯覚」を含まず、きっと全体性の観点からの視点であり、

全て万物と同調しており、私とあなたは分離していないことだろう、人の苦しみは私の苦しみであることだろう。

その知覚は超知覚であり、時間空間の枠を超えて「見」と繋がっていることだろう。

そしてその時、その知覚はあるがままをあるがままに見ていることだろう。

私達は決してあるがままをあるがままには見てはいないのだ

条件付けられている脳によって、条件付けられたように見えているのである。

自分と他人は異なっているように見え、「私が見ている」「私は見ている」と思ったりするのである。



人類の知覚とは現段階の脳では、脳の条件付けに従って私達がよく知っているように起こっているが

この複雑極まる知覚作用は決して私のものでもなく、私が起こしているのでもない

全くその逆にこの脳を含めた知覚作用の結果として「自他の分離」「私が知覚している」との錯覚が生じているのだ

正しくは私が知覚しているのではなく、知覚が起こっているのだ。



条件付けられている知覚作用が働いているので私という記憶の働きが維持されている

実際には、この私・自己とは記憶の働きであり、その記憶は知覚システムから生じているように

思われる

記憶は働いており、知覚は起こっており、認識も起こっているのであって、決して私が知覚しているのでも

私が見ているのでも、私が考えているのでもなく、私が記憶、認識しているのではない

この私自体、見ること、知覚すること、思考すること、記憶すること、認識することなどはシステムによって

生じている結果(思考の記憶)である

私とは投影されている映像、起こっている現象であるように思える

それを真逆に捉えているのが起こっている自我と言われている思考の記憶である私だ。

従って、この私が知覚しているという実感がある限りにおいては

考えることの全ては自我の考えであり

行うことの全ては自我の行い

願うこと欲することの全ては自我からの願いに他ならない




この事を古の禅僧は言う

「私も誰も何もしておらず、することは起こっている」

「私が行為している。私が考えている、自分は良くなっていると思っているのは自我であり、自我である証拠だ」

「達成と実現を求め、悟るために修行をするのも自我であるゆえである」

「私は見ていない、見ることは段階に拘わらず起こっていることだ」

「私は考えていない、私自身と同様に考えることは起こっている」

「至ること、至らぬこと、何かをしようとすることも、何かに成ろうとすることも、良いことも良くないことも起こっている」

「願望、願うことも願わないことも、思考、考えることも考えないことも、欲望、欲することも欲さないことも起こっている」

それは「私、自我、私自身というものが起こっている」ことであるからである

思考、感情、知覚、行為は起こっていることであり、それは「私という観念」から起こっている

思考が有る限り、行為がある限り、知覚がある限りそれは私という観念・自我の範囲を出ることはない。





K的に言えば思考がある限りは、見る事はなく、あるがままをあるがままに見る事もないということであろうか

そして思考がある限りは私は未だそこにいる。私がそこにいる以上は正しい行為と正しい思考が求められる

マーヤが続いているからである。マーヤの中では私とあなたは別々である。

そしてマーヤの中に於いては、思考者も行為者も経験者も観察者も残っている、私は未だ残存している。

それ故に観察している私がいる以上は、正しいあり方、正しい行為、正しい判断・自由意志は必要となる。

私が生きているというマーヤの実感が残っており、万物との一体感・同調現象が起こらない限りは八正道は必須であるからだ。

殺されるものも殺すものも私であるとの実感が起こらない限りは正しい行為と正しい思考、正しい判断は必須であることだろう。

思考、「思考という私」が残存している以上は、自由意志・行為者というマーヤのなかにいるからだ。


エレブナ的に言えばハートに位置するサイコノエティック体が再形成されない限りは、本来あるサイコノエティック体と繋がらない

と言うことかもしれない


(以上のことはかなり一般常識から離れているので、ある意味では危険です。これは不二一元哲学を前提としています)