虚偽の中に真理を見る
見ている目には三つの種類があるという
Kの言う「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真理を見、真理を真理と見ること」
の三段階である
一つは純粋なる理性・思考・マインドの目であり
それは虚偽を虚偽と見ている。自我を自我と見ている。鋭い理性の目である。
信仰や信念の中に自我の働きを暴き峻別し、隠れた自我を白日の下に顕わにする知性の目である。
善と悪、白と黒を、光明と暗黒を区別し、敵と味方、自と他、内部と外部を分離していると見ている識別の目である。
レベルと次元、未熟と洗練、低度と高度、過去と未来、私とあなたというように分離しているマインドの目である。
即ち自己、私という心マインドの目である。
二つ目は未知なる目であり、観照の目と言われる闇を突き抜けた目でもある。
自我の根源にたどり着いた目でもあり、闇の根源を突き抜けた目でもある。
それはKのいう虚偽の中に真理を見ている目
私達である自我の中に神を見ている目であり
大罪人・極悪人の内奥に神を見ている目
私達である「私という観念」の底にたどり着いた目でもあることだろう
これは観察ではなくて観照の目と言われる。
完全なる信頼と、完全なる明け渡し、受動的凝視、受容と観照の状態である。
魂の内奥の目と言われる。
三つ目は波一つない完全静寂の中、思考が全く無い沈黙の中
湖面の波が静まり、そこへ満月が映るように、水面に映っている真我の意識
この超意識はあらゆる人を神そのもの、すべてを神と見ている神の目である
これはラーマクリシュナの目でもあり、誕生した恩寵の目である。
「ブラフマンの智者は、内も外もすべてが実は、最高我・
パラマートマーであることを見ます。
水が二つに別れて見えているだけです。
内と外という感じがするだけです。
「私」という瓶があれば、そのような内と外という
二つを見ている意識になってしまうのです。
その「私というもの」が、もし消え去れば、そうすれば、
あるものがあるだけです。この「私」・自我とは、あのお方
自身が置いておかれたのです。
この自我・私とは、あのお方の遊び、あのお方の遊技です。」
と言明されているように、ラーマクリシュナは神の目でもって、全ての中に神を見ているのであろう
この目とは湖面というマインドが完全に静まった状態に映っている満月という至高なるものの目であり
インド的表現ではあるが、このラーマクリシュナの言明によく現されている。
悟ったものの目には、現象は消え去り、自我の中に至高なるものしか見えていないのであろう
それは神が全ての者に神を見ているのであろう
それがKのいう真理を真理と見ている目なのではないか
恩寵によって、自我の根源にたどり着いた目でもある。