無明
実は、あらゆるものは神の仮の姿、仏の仮の姿であると聖賢は云われている。
内奥の未知なる意識が顕れたとき、その事が理解されるのだという。
では、あらゆる人の中に仏や神を見ておらず、見る事が出来ないでいるものとは誰だろうか?
誰が見る事が出来ないのか? 見る事が出来ないのは誰か?
誰が見ていないのか? 見ることがないのは誰か?
それは私と言われている。
では何故、私とは全ての人々の中に神や仏を見られず、見ていないのか?
私とは、どうして自他が分離している分離分割しか見ることができないのか?
どうして自他の分離不可能な全体性を見ることができないのか?
それは、私とは目がないので見る事が出来ないからではないか。
実は、私とは目がなく、従って見る事が出来ず、自身は暗黒なのではないか、私とは無明なのだ。
肉体や諸体の脳にはいって、視神経と繋がり、網膜そして脳が見ている情報を受けとり、
記憶と繋がり、私は記憶している、私は見ている、自分が感じていると思っているだけなのではないか、
しかし、
目を瞑れば何も見えないことからして、私とは、見ることが出来ない暗黒であることを証明している。
実は自分とは暗黒であり、「光が在るとき存在していないもの」なのではないか
無明・私はこれら視覚という五感と同じように、超感覚も超視覚も諸体の脳の機能であるにもかかわらず
肉体と繋がり、諸体と繋がっているので自分が見ている、自分には見えていると思っているだけである。
この私とは個別的霊魂から出て個別的霊魂を覆っている根本無明であるようにも思える。
思考も感情も心も同じように、それらは自分のものではなく、自分が起こしているのでもない、
それらは起こっていることだ。
この思考も感情も記憶も物質であり、これらの精妙なる物質とは私達が創造したものではない。
通常では、地球人類の私達は「私が思っている」、「自分が考えている」という、その様に実感している
しかし本当にそうなのであろうか?
それは私・無明が脳に入って脳と同一化したからではないか?
よく注意して観察すると、思考も心も脳に起こっているのではないか?
さらには自己さえも投射されている映像なのではないか?
自分にはこの自分を創造することも出来ず、自分を選択することもできないからだ
考えが起こっており、脳にその思考が発生しているので、脳の神経と繋がっている私・私という観念は、
「自分が思考している」と思っている・・・行為と同じように
感情と同じく、記憶の反応である意志も、脳と繋がった私という観念・私が
自分の感情だ、自分の意志で行為している、私の心だ、自分の記憶だと思っているのではないか
けれども
この肉体も、そして肉体の行為も、起きている出来事も
思考や感情と同じく起こっている現象であり、脳に浸透し結合した私という観念即ち私が
自分が考えている、自分が感じている、自分が記憶し、自分が行為していると錯覚しているのではないか?
起きている思考や感情のことを「自分が思考している」のだ、「自分が感じている」のだと錯覚するように
私という観念即ち私とは、神聖なるマーヤの現象界に起こっていることを
自分が起こしている、自分が為していると錯覚している。
それは諸身体に入り、諸身体の頭脳と結合したからだ。
「我思う故に我有り」、と、起こっている思考のことを、自分が思考しているのだと錯覚している。
本当はこの「我思う故に我あり」の我も、感覚や知覚や認識と同じく起こっていることであり
根源から投影されていることなのだと教えられている。
魂を覆い、脳に浸透した「無明」、それが即ち私という観念・私に他ならないように思える。
私、この無明とは主客分離し、常に自己中心的であり、自己を意識し、利益を自己へ誘導している。
それは、私という意識であるからだ。
競争心に満ち、高慢で、恐れ、不安そのものである私とは、いつも安定、安心を願い努力している
神のように成ろうとし、至ろうとし、常に時間と空間の範疇内で藻掻き生き続けている
この私とは神聖なるマーヤ「私という観念」、根本無明にほかならないのではないか
そして、それなのでKやラマナ・マハリシはこの私という観念の奥底・根源に至りなさい
即ち私・自分自身である私という観念の奥底に至りなさいと教えておられるのではないか
ラマナ・マハリシの指摘している「私は誰か」の私とは「私という観念」のことであり
この「私という観念」の根源に至りなさいということを指しているのではないか
そしてこの私という観念の奥底に、もし至ったなら、神だけがあることだろうと
そしてそこには私はいないことだろうと教えておられる。