正しい観念
私達とは、起こっている事柄であり、起こっている結果であり、起こっている観念であり、
しかもそれは私という観念である様に思える。(これも観念ではあるが)
観念には正しい観念と正しくない観念があるのではないか。
私達とは起こっている行為や起こっているマインドに対する、これらの記憶の条件反応であり、
これが私という観念なのではないか
私自我とは記憶の束であり、その記憶とは私という観念なのではないか
さて、私の友人に「気づき」(悟り)を体験したと思っている方がいるが
それは「気づき」ではなくて”「気づき」だと思っている観念”であろう、と私は思っている。
そしてその友人はそれは観念であるにもかかわらず、「マインドを超えている意識」を体験したと思っている・・
拡大する意識、肉体ではない高次の知覚、異次元体験、光明体験、見神体験、高次元意識等々
これを観察している観察者がいる限りは、それは未だ観念の領域であり、観念とは「気づき」ではない・・
客体として対象化し、必ず分離し、分割するマインド・私という観念がある限りそれは「気づき」ではない。
いかなる観念も起こらないとき、そこに「気づき」が誕生しているのであると教えられているからだ。
観念の休止、完全なる静寂、思考の停止、自我の終焉こそが観念としての正しいあるべき姿であるように思われる。
そのためには「観念」に於いて、正しい観念であること・・・が望ましいのではないか。
沈黙していること・・それが観念として最高度の状態なのではないか
観念として正しい観念であることが、観念としての正しいあり方なのではないか。
この「気づき」と繋がることが可能な状態とは、最高度の脳の状態でもあり、
その最高度の脳の状態とは思考が沈黙している・・という脳としては最高度の活性状態なのではないか
この友人の体験は「気づき」ではないと思われる。
何故ならそこには記憶が働いており、瞑想行為の実感があり、認識者がそこにいて、体験者と経験者がいるからである。
この知覚者と認識者がいる限り、限りそれはマインドの領域内であり、自他に分離している。
巧妙なマインドの詐術に陥っているにすぎないと思われる。
体験している体験者がいる限り、それは主体と客体に分離しているマインドに於けるマインドの領域であり
それが如何に高次、高尚のように感じられても、それはマインドの詐術であり、
それは「気づき」ではない・・体験している私が残存してるからだ。主体と対象が分離しているからだ。
”私は悟った”と言う、私を含んだ実感とは悟りでもなく、解放でもなく、「気づき」でもないと私は思う・・・
何故ならそこにそれを知覚し認識し記憶している自己・自我がいるからである。
私の”悟り?”の記憶こそが思考の反応だと思われるからである。
ゆえに、それは決して真実の悟りではないと思う。
私という観念がある限り悟りではない。
知覚する私がいる限り悟りではない。
わたしはその私の友人の悟りとは複層的で巧妙なマインドの詐術だと思っている。
「気づき」「理解」などと言われる未知なる意識は、既知なる意識が終焉したときにそこに本来在ると言われている。
既知である記憶や私という自己(体験し、記憶し、知覚する私)がいる限り、
悟ったと記憶する「私」がいる限りは「気づき」はあり得ないし「見ること」はあり得ない。
私のもう一人の友人も「私は未知なる意識に触れました」と言明している・・・何という自己欺瞞であろうか
この蓄積し、獲得し、至ろう、安定したいとする観念である私の終焉こそが、思考の沈黙こそが「本来の意識」の
始めからそこに在ったという未知なるもの(気づき)の誕生であるのに・・・・・
既知なるものの終焉が未知なるものの誕生であり、
禅で言われる「本来の面目」が現われるのは、
既知であるマインドの停止→静寂がキーポイントであるのに
この友人は既知なるものである記憶や体験という異次元の知覚によって、
即ち分離している私によって「未知なる意識」が捉えられると思っているわけだ
これは正しくない観念、間違っている観念である。
既知であるこの私、私という観念=私達にとって、可能なことは、(私とは観念である以上は)
自分は行為しているという実感がある限りは、正しい観念であることしかできないように思える。
仏陀の八正道である。観念として正しく思う事である。
「気づき」が誕生する為には、まず正しく思考することが大切であると思う・・
自分が行為していると錯覚し、実感している私達・思考(私という観念)にとっては
自分は行為していないとする・・正しい観念が必要なのではないか?
行為は起こっている・・これは観念ではなくて観念を超えている「気づき」からの言明ではあるが
行為は起こっている・・これを正しい観念としてしっかりと保持することも観念である私達の正しいあり方なのではないか
このことは仏陀の正しく見ること・・・正しく観念することでもある。
私達は記憶の反応、観念そのものである以上、観念として正しい観念であることが肝要なのではないか
それこそが
「行為は起こっている」「観念は起こっている」「自己は起こっている」「私は何もしていない」ではないか
このことを観念として、追認し、自証すること
私達である観念にとっては、「気づき」として見ることがあり得ない以上は「観念」として正しく観念することが
観念としての正しいあり方であるように思えるが・・・如何だろうか?
私達は気づきではないのであるがままを「見ていない」、「見る事が出来ない」「行為していない」「自己は存在していない」
・・・これが正しい観念である。
仏陀の八正道は、私達・私という観念にとって
即ち、私という、行為から生じた意識、思考から生じている意識、記憶から生じている意識にとっては
この八正道は、とても大切なことだと、思われる。
私達とは結果であり、起こっている過去であり、私は私という観念である以上は、正しい観念としてあることが
仏陀の八正道に沿った生き方
であるように思えるが如何であろうか?