私の意識



一般常識では意識というと、すぐに「私の意識」、意識は私独自で私のものだと思うだろうが

意識とは私のものではない。そもそも意識そのものが私が作ったのでも私のものでもないからだ。

私自体がここに起こっている意識のことであり、この起こっている意識以外に私とはいない。

起こって去来するこの意識があって、これ以外に私である主体とは存在していない。

他と分離しているこのようなレベルの意識が虚構である私を生み出しているように思える。



このお馴染みの意識が単純にここに生じているだけだ。意識がここに生じているだけであって

心が去来し、記憶の反応が起こっているのだ。どこにも私はいないのである。

この自己感覚・私を伴っている意識が起こっているだけなのである。



殆どの人が意識の事を「自分が意識している」、「自分の意識」「私の心」だと思っている。

意識(この場合は思考のことだ)が生じていて、その生じている意識が自己若しくは私という主体感覚を持っているのであり

この主体感覚、自己とは生じている意識に付帯して発生しているのであり、このレベルの意識とは実際は思考・意識=私であって

この意識を生じさせたのは私・自己ではなく、この限定されている意識がここに起こっており、その意識が即ち私なのだ。



高次のレベルの意識なら全く私を含んでいないことだろうが、今のところ私(即ち思考)はそのレベルの意識ではない

ここには未だその高次の意識は誕生していない。

思考が残存している限りこの未知なる全体性の感覚を持つ意識は顕現しない・・と教えられている

思考の沈黙が起こるとき未知なる意識(気づき)が誕生する・・とも言われている


もし未知のレベルの意識であるなら、きっと自己、私、等という主体感覚を持っていないことだろう

その様な意識は自他の分離を含まないことはラマナ・マハリシなどの聖人を見れば明らかだが

その意識は、この私という自他を分離している意識からは推し量ることも、想像することも出来ない。



このお馴染みの意識においては

意識が起こった瞬間に、私という主体感覚・自己意識に汚染されているのかもしれない

心が起こった瞬間に「私の心だ」という私という主体感覚が生じているからであり

これが間違っていないとすると

本来の意識そのものは私、という主体感覚を含まないものであり、「気づき」であるといえる。

だが私達に於いてはこのお馴染みの主体感覚が本来の意識に被った「私という観念」の意識だと言える。




悲しみも、恐れも、イライラも、不安も、増上慢も、感動や、喜びや、同情心などと同じように

自分が創造したものでないにも拘わらず

私達、人類はこの悲しみは「自分の悲しみ」、「自分の喜び」と言い、

「私は悲しんでいる」「私は恐れている」「私は不安だ」と自分が措定されてしまう。

しかし、ふつうに単純に見ても、それは自分が恐れているのではなくて、

ただ恐れが起こっており(「私」に起こったのではなく、思考・感情が起こっているだけであり

その起こっている思考や感情が、私に起こっているという思考の観察者・私を生んでいるのである)



その恐れとは「私」でもあるので、「私は恐れている」という感覚(恐れの観察者)を生じさせているように思える。

恐れているとき、真実は恐れだけが起こっているのであり、その恐れが「恐れを観察する私」を生み出している。



「私は苦しんでいる」のではなくて苦しみが生じており、「私は悲しんでいる」のではなくて悲しみが起こっており

ただここには「苦しみ」「悲しみ」だけが起こっていて、「苦しむ私」、「悲しむ私」とは虚構なのではないか



「私の自我だ、自我が私だ」ではなくて、起こっている思考自体が(継続している記憶の反応が)即ち自我であり

この記憶システムが、発生してくる思考や感情に対して「私の考えだ」、「私の感情だ」と言うのではないか

思考や感情や心とは勿論、私の創作物ではなく、ここに発生している起こっているものであるように

この起こっていることに対して反応する継続している記憶が「自己意識」を生じさせ「私の記憶だ」

「私の記憶の反応だ」という私という実体感覚を生じさせている。

実際には私とはその記憶によって生み出されている虚構であるかもしれない


本当はこの主体である私とは架空のものであり、発生している心や知覚や思考が私と言う実体感覚を伴っているために

私が存在しているように感じられているだけに過ぎない

私とは生起し去来している思考・心の記憶なのではないか

本当は私やあなたとは存在しておらず、そこに思考と感情、そして継続している記憶だけがあるのかもしれない



行為が行為している私を生み出しているように、ここに起こっている記憶が即ち私という錯覚を生じさせているのではないか

と考えたりする今日この頃である