ある考察・熟睡
熟睡という現象は、人類のみならず呼吸しているもの全てが共有しており、同じ質であるように推察される。
熟睡とは、ある「特定意識場」にはお馴染みの意識、心が発生していない状態であるといえようか。
けれど、この熟睡がなければ発狂することだろうし、熟睡があるので蘇生できるのだ。
熟睡とは現象・意識のマトリックス(母胎)なのではないか?
さて、このことを大脳生理学的観点からではなく、現象意識の面から思考してみたい。
熟睡があるので個人の継続も、個別的な記憶も、一人一人の人生も、そしてその個人の意識も成り立っ
ていると思う。熟睡から個人、私、意識は生じているのだと思っている。
熟睡が現象を支えているのだ。
熟睡自体とは命あるもの全てに同じであり、その熟睡の中見の状態・質とは全く同じようであるように思える。
輪廻が継続しているのは、この「特定意識場」があり、ここに熟睡が起こっているからであろうか?
熟睡の中見とは肌の色の違いを超え、宗教を超え、個人の人生の違いを超えて、生あるものは悉く同一で
あるように思える。すべてが同じ母胎(マトリックス)なのだ。総べてが同じ熟睡なのだ。
この熟睡時の意識状態とは、個人的な記憶と、認識と、知覚、そして勿論思考や感情も私も発生して
いない状態であるが、熟睡とはそれらの母胎(マトリックス)のことであるように思える。
この熟睡状態がなければ、夢見と、覚醒はありえず、従って個人・私はありえず、
輪廻もリーラもあり得ないからではないか。マトリックスは現象の母なのではないか?
このマトリックスが生起する「特定意識場」とは決して私でもなく、私のものではないからだ。
個人の夢見と覚醒という意識状態は、この熟睡から生起しているので、熟睡は知覚や認識の対象となっ
ていないのである。知覚や認識自体がこの熟睡からのものであり、これらを観照しているといわれる未知
なる意識(マトリックスを観照する意識)ではないからであるとおもえる。
自己・私・私の・私が・私のものとはこの熟睡から生じている。
知覚、認識、記憶はこの熟睡から生じている。
それらはこの母胎(マトリックス)から生まれている。
覚者達の「気づき」とは、この命あるものの「特定意識場」に誕生(又は出現)した、未知なる意識の事を
指しているのであり、「特定意識場」での心に属する覚醒や夢見の意識のことではない。
この「気づき」とは、「特定意識場」を覆っている熟睡、夢見、覚醒を繰り返している、マトリックスの意識では
なく、それらの既知の意識から脱皮することがらのように生じ、この「特定意識場」に出現した、全く
新しい私という分離感覚を含まない意識の事で、それは空間そのものの意識の事かもしれない。
これを称してKは「気づき」といっている。
この「気づき」であるがままを見なさいといっている。見ているとき私はいないと言っている。
ここでのこの「特定意識場」と称されるものは、三次元イメージ的には空間が生み出し、空間から出現し
た球体のようなものであろうとわたしは想像している。
純粋空間からこの「特定意識場」が出現し、この意識場に於いて生起しているのは現在のところ夢見・覚醒・
熟睡の繰り返しではあるが、突然ここにこの循環サイクルが打ち破られ、この特定意識場に特定意識場を
成立させている空間の意識が誕生することを「気づき」というのではないだろうか?
マトリックスを生み出している意識が出現したのではないか・・・それがKの言う「気づき」ではないか
勿論この誕生した「気づき」には、私は含まれてはいないことだろうからして「私は気がついている」とは
自己矛盾した言辞であり、「私は気づいている」「私が見ている」・・それはありえない。
「気づき」あるとき、全てが在るのであり、見ている私はいないことだろう。
※私はここで特定意識場をタマネギのように階層性のある個別的霊魂(全体性)と仮定している。
マトリックスがこの「特定意識場」を生み出しているようにも思えるのだが・・